<コンビニ創業戦記・附伝>「鈴木貞夫言行録」第11回

      2020/11/29  

第4章「コンビニ時代」(その5)

――1976年(昭和51年)~2006年(平成18年)--42歳~72歳――

《「ローソン」(ダイエーグループ)時代》

1994年(平成6年)~2000年(平成12年)--60歳~66歳

この期間、ローソンは5000店を達成した後、藤原社長体制となり、社名を「DCVS」から「ローソン」に変更した。

私は主に相談役兼東富士ゲストハウス館長を務めたが、株式上場直前に常勤監査役に専任される。

今から思えば、あらゆる意味で激動の「シュトルム・ウント・ドランク」の時代が進行していく眞最中であったと云えようか。

日本経済は、 バブル崩壊の影響をとどめることが出来ず、地価の急速な下落と、、あらゆる分野での価格破壊が進行し、デフレ経済化が進行していく。

工場の海外移転の急増により、日本経済の空洞化が進む。

大手金融機関の破綻、大企業の統廃合などが進み、’98年には、自殺者が初めて3万人を超えて、社会問題化した。

企業の生き残りを名目とするリストラが横行、失業率の高止まりが続く。

まさに、「失われた10年」と云われる「日本経済の停滞」の眞只中にあったのである。

この時期、ローソンは、阪神大震災の直撃を受けたにも関らず、被害を最小限にとどめて成長を持続させる。

中国・上海出店による初の海外進出を果たし、都市対抗野球参入のためのローソン野球部創設や、沖縄出店によるこの国初のナショナルチエーン達成などを果たし、店舗数も7500店突破、売上1兆円超えを実現する。

そして当時、バブル崩壊と阪神大震災などにより深刻な苦境に陥っていた、中内ダイエーグループを支える中心基幹企業の役割を担なっていくこととなる。

2000年の東証1部への「ローソン株式上場」は、中内ダイエー生き残りの「最後の切り札」であったはずであるが、やや時期を逸していたかもしれない。後の経過をみれば、まことに残念ながら、結局はダイエーを生き残らせることはできなかったからである。

 「続・5000店達成記念」

ローソンの5000店記念事業は、お客様への「感謝セール」、加盟店への「オーナー・シンポジューム・イン・ハワイ」開催と、研修センター「ローソン東富士ゲストハウス」開設の三つの企画を中心に推進された事は、既述のとおりである。

(日本経済新聞’94年8月23日1ページ広告)

「5000店達成記念・オーナー・シンポジューム・イン・ハワイ(後期)」

――1994年(平成6年)9月25~10月2日――

5000店達成記念「オーナー・シンポジューム・イン・ハワイ(後期)」は、藤原社長体制で行われた。

4000人のオーナーさんご夫妻を2000人ずつ2回に分けて開催し、内容は前期と全く同様であった。

中内CEOご夫妻も、オーナーさんたちに囲まれて、最高の笑顔で応対されていたことを記憶している。

私も相談役になっていたが、セミナーの盛り上げとオーナーさんたちとの交流に当たった事は、前期と変わらない。

なおこれについては、≪DCVS回想録・第13回14回≫に詳述している。

(「PAL」’94・11月号とセミナーファイナルパーティ風景など)
   
(取材陣に囲まれる中内CEO) (ゴルフを楽しむ)

  「ローソン東富士ゲストハウス」

この期間は、加盟店オーナー研修の最盛期であり、私がゲストハウス館長として情熱を傾けた時期である。

毎週2回は来館して、オーナーさんたちの応接や講義など多忙で、それなりに充実した日々であった。このあたりの経緯は、≪DCVS回想録第20回から第30回≫にかけて詳しく書いているので、お読みいただけると有り難い。

(フランチャイズ・タイムズ・ジャパン’98・10)

「ゲストハウス朝礼」

ゲストハウスに来館した際には、努めてスタッフを前に朝礼スピーチするのを常とした。恐らく500回以上にはなるであろう。

「阪神淡路大震災など」

5000店達成の翌年、1995年(平成7年)は、年明け早々の1月17日、突如として阪神淡路大震災が発生、さらに続いて同年3月20日、地下鉄サリン事件が起こる。全世界に大きな衝撃が走り、日本経済を揺るがす事態となった。

この年5月、DCVSは、社名を「ローソン」に変更し、ダイエーグループ主力基幹企業としての実質的存在を強めていく。

そして念願の中国進出を決定し、1996年7月上海出店を果たす。

さらに、「ローソン野球部」を創設して、社会人野球に進出を決める。

それは当時全盛期にあったプロ野球球団・「ダイエー・ホークス」の予備軍的性格を持つものであった。

それらの経緯は、≪DCVS回想録・第35回≫を参照していただきたい。

前述のとおり「阪神淡路大震災」は、バブル崩壊以後の停滞期に入っていた日本経済に大きな衝撃を与え、その後の立ち直りに大ブレーキを掛けることになった。特にダイエー本体は、本拠地神戸を中心に、大打撃を受けた。

このときのローソンの懸命の戦いについては、≪DCVS回想録第18回19回≫にを参照していただきたい。

ローソン自体は、この厳しい試練を懸命に乗り越えて、大災害時に於けるコンビニのライフラインとしての存在証明を見事に示したのである。

さらに、日本初の「ナショナルチエーン」実現に向けて一路邁進し、2年後の1997年7月、沖縄出店で全国ネツトワークを達成する。

むしろ巨大流通戦艦・中内ダイエーが、阪神淡路大震災の直撃で受けた傷はまことに致命的というべきであった。その傷は余りにも深く、必死の再生努力にも関わらず、無情にも数年後に歴史に記録されることとなる。

「創立25周年記念誌・『挑戦』『飛翔』の発行」ーー2000年(平成12年)4月

ローソン創立25周年記念誌を発行するに当たり、中内さん、松岡さん、藤原さん、私・鈴木の4人で対談する企画が持ち上がったのは、2000年(平成12年)1月のことである。

一体どういう雰囲気になるのか、まるで見当もつかなかったのだが、00アナウンサーの名司会で、思いがけない話題が飛び出したりして、終始和やかに、気の置けない、笑いの絶えない対談が進行した。

中内さんは、コンビニ参入について経緯や昔語りをされ、私たちが初めて伺う話もあったと思う。私も、それにつられて創業期の秘話を紹介し、サンチエーン社歌「目標5000店の歌」を中内さんの前で大声で披露したりしたものである。中内さんは、「まるで軍歌やな」と微笑みながら云われた。

あのときの中内さんの、まるで仏さまのような好々爺とした表情は、いつまでも忘れることはない。

中内さんにとって、既に三菱商事への株式譲渡を決めた直後ではあったが、この対談は束の間の至福の時間だったのではあるまいか。

 

(創立25周年記念対談)     (25周年記念誌・「挑戦」「飛翔」)

「海外視察など」

この間、上海・米国・欧州視察など海外の流通を視察する多くの機会に恵まれた。

海外視察の詳細に付いては、≪DCVS回想録・第10回から第17回≫を参照されたい。

次は、ゲストハウス館内報「TOPG」への私の投稿文「アメリカの流通を見て」である。

【 『アメリカの流通通を見て思う』

半年振りに、アメリカの流通視察に参加してきました。今回はシカゴ・アトランタ・ロスアンゼルスを回りました。

シカゴでは、世界的に有名なFMI(国際スーパーマーケツト展)を見学し、アメリカの食品流通の最新の動きを介間見ることができました。

アトランタでは、コカコーラ本社を訪問し、コカコーラの歴史や現状、国際戦略についてのプレゼンテーショんを受けました。

ロスアンゼルスでは、全米第2位のショっピングセンター・モールをはじめ、いくつかの有名なお店を駆け足で回りました。

いつもアメリカへ行くと感じることですが、常に何か新しい挑戦の動きがあり、とても勉強になります。

今アメリカでは、ホームミールリプレースメントということで、家庭での食事を肩代わりする調理済み食品と自然食品・健康食品への関心が高まっています。

また、店頭での接客応対に非常に力を入れています。 】

--1996年5月ゲストハウス館内報への投稿文

「JFA関連]

1997年5月、JFA25周年記念の行事として「わが社の環境戦略について」と題してシンポジュームが開催された。次は、加盟各社の代表が、それぞれの戦略について発表し、意見を交換した際の写真である。

(シンポジューム風景)    (JFA25周年記念誌)

「 講演」

相談役になって社外講演の機会が増えたような気がする。資料の残るものをリストアップすると次のようになる。

割合いろいろなところで講演したものである。

<講演リスト>

’94年(平成 6年) 7月・「中日本日食フォーラム」(名古屋観光ホテル)

9月・「西日本日食フォーラム」(東洋ホテル)

11月・「コカコーラ・ビジネスセミナー」(仙台プラザホテル)

11月・ダイエーSM・FCオーナー研修会 (横浜ブリーズベイホテル)

’95年(平成 7年) 1月・「道央青果協同組合新春セミナー」

(京王プラザホテル札幌)

4月・「日食食品経営フォーラム」(虎ノ門パストラル)

4月・「三国コカコーラ経営セミナー」(大宮ソニックシティ)

10月・「第1回全国社会福祉法人経営者専門講座」 (ロフォス湘南)

12月・「CVS商品戦略セミナー」 (大手町ファイナンシャルセンター)

’96年(平成 8年) 4月・「CVS新聞20周年記念セミナー」(東京YMCA会館)

5月・「商業経済流通革新セミナー」(東京グランドホテル)

7月・「丸紅食料事業社会セミナー」(丸紅東京本社ビル)

8月・「清酒メーカー戦略セミナー」(九段会館)

’97年(平成 9年) 8月・「清酒メーカー生き残りセミナー」(虎ノ門パストラル)

10月・「第3回全国社会福祉法人経営者専門講座」(ロフォス湘南)

11月・「長野県信連食品セミナー」(長野ロイヤルホテル)

’98年(平成10年) 8月・「清酒メーカー戦略セミナー」(メルパルク)

’99年(平成11年) 7月・「日食フォーラム」(八重洲冨士屋ホテル)

11月・「日食長野支局50周年記念セミナー」(長野第一ホテル)

上記の中で、特に「社会福祉法人経営者専門講座」の内容をサマリーしておきたい。

【 「第1回社会福祉法人経営者専門講座」講演要旨」ーー’95年10月

テーマ・『コンビニ成長に見る変化適応の経営』

Ⅰ・はじめに

経営の本質は、市場の要求・必要に応えることである。市場の要求は常に変化し続けるから、変化適応することが経営といえる。

変化はある日突然にやって来る様に見えるが、実際は必ず前兆があるものだ。

小さな兆候の中に時代の方向性を見つけるためには、問題意識を持ち磨き続けることが求められる。

問題意識とは、歴史観であり、経営哲学ともいえる。

世界をどう見るか、その中でどう生き抜くか、歴史を見る確かな目を磨き、信ずるところを貫き通す精神である。

時代の動きはまことに早い。ゆえに学ぶことを忘れたら直ちに取り残されることになる。

Ⅱ・パラダイム・チェンジの時代

我々は、世界史的・人類史的大転換期を生きていると思う。

3000年前の「農業革命」を人類の第一革命、即ち「食の革命」とすれば、300年前の「産業革命」は人類の第二革命、即ち「筋肉革命」であり、そして現在進行中である30年来の「デジタル情報革命」は、まさに人類の第三革命、即ち「頭脳と耳目の革命」といえよう。

第一革命・「農業革命」の進行には「10の3乗×3倍」、第二革命・「産業革命」の進行は「10の2乗×3倍」で地球規模に及んでいることになるが、現在の第三革命・「デジタル革命」は、「10の1乗×3倍」の猛スピードで進行しつつある。

このような人類史的にも急激な大転換の中で、我々日本人は、バブル経済の崩壊と米ソ対立冷戦構造の終焉に伴うグローバリゼーションの進行という現実事態に遭遇し、社会の枠組みや価値観、従来の成功体験や、神話・常識の崩壊に直面している。

戦前・戦時の日本システムの特徴を、現在生きている人間の視点から独断的にいえば、「富国強兵=人間を不幸にするシステム」と規定出来よう。その基本要素は、「国家中心・軍国主義・植民地主義・滅私奉公・配給社会」といえる。

戦後日本のシステムの特徴は、「日本的経営=人間を幸福にしないシステム」と規定されよう。

その基本要素は、「会社中心・集団主義・一国主義・滅私報社・供給社会」である。

これに対し、これから目指す「日本のシステム」は、「市民社会=人間を幸福にするシステム」と云うべきであろう。

その基本要素は、「個人中心・個人主義・国際主義・活私報社・選択社会」である。

現在進行しつつあるボーダーレスな世界市場化は、メガ・コンペティションを強め、グローバルな四つの革命を早めるであろう。

即ち1・価格革命=モノの自由化、2・情報革命=情報の自由化、3・雇用革命=人の自由化、4・金融革命=カネの自由化、である。

これらの四つの革命の進行が、果たして「人間を幸福にするシステム」とし機能していくかを注視しなければならない。

生活者主権の時代を実現するためには、近代人類が築いてきた三つの大きな遺産、

すなわち、1・「政治は民主主義」、2・「経済は市場経済」、3・「生活は個人主義」、を大切に活かし育てていくことが不可欠であると確信する。

今日の日本の混迷状況は、「民主主義」と「市場経済」、そして「個人の自立」、即ち「市民社会の成熟」が、真の課題として達成されていないところにあるのではないか。

すべての人間が、それぞれの立場で生きる権利を持ち、幸福な生活を追求する権利があり、誰人も一人の尊き人間であるという生活者主権の社会こそ、人間を幸福にするシステムであると確信する。

Ⅲ・激変する日本の流通構造

商業センサスに見る戦後日本の小売業の変遷は、時代変化を正確に反映していると云える。その特徴を上げると

1・業種から業態への加速化で、伝統的業種型小売業、零細商店が激減したこと

2・業態間格差が拡大し、「百貨店から、ビッグスーパーへ、そして今やコンビニへ」と、商業の主役交代が急激に進んだこと

3・企業間格差の拡大により、淘汰が進み、今主役となっているコンビニにおいても、上位集中が進行していること

など、を指摘する事が出来る。

コンビニは今後も、「生活民主主義の実践と最適システムの追求」を通じて、「地域生活者の日常生活サポート基地」(=エブリボデイ・エブリデ―・ライフライン)として、さらに進化し続ける。

その過程を通じて、商業は生産者の販売代理人から、生活者の購買代理人へと生まれ変わり、生活者主権の時代を切り開くパイオイ二アの役割を担っていく事になろう。

Ⅳ・ローソンの目指すもの

第一に、「まちのほっとステーション・ネツトワーク」を構築することである。

この国の生活者が、毎日を安心して暮らせる社会の実現に貢献したい。

地域のお客様の日々の暮らしになくてはならない地域一番店の集合体としての「真のナショナル・ライフライン・ネツトワーク」の完成を目指したい。

一人ひとりの生活者の小さな声の購買代理人としての自覚を持ったナショナルチエーンの存在無しに、経済民主主義、生活者主権の実現はあり得ないからである。

そのために、

第二に、役割分担共同経営としての「フランチャイズビジネスとしての成功条件」を一層向上し続けることである。

フランチャイザーとしての役割は、「お客様満足と加盟店満足の両立を図るシステムの絶えざる革新」であり、

フランチャイジーとしての役割は、「地域のお客様にとって真に信頼出来る一番店を実現し、維持し続けること」である。

そのために第三に、ザー、ジー共どもに、「ローソン商人道」を全力を挙げて実践し、磨きあげ、深め合い、究めていく努力が欠かせないのである。

それが「チエーンカラー」=「ストアーカラー」、すなわち「ローソン商人道の追求」が、真の意味で「社風」、「店風」と成るとき、我々の目指す生活者主権の社会が実現するであろう。 】

――1995・5・27--(於・ロフォス湘南)

「株式上場記念加盟店オーナー様謝恩コンベンション」

――2000年(平成12年)11月21日・22日・29日・30日・12月1日

(於・福岡シーホークH&福岡ドーム)――

ローソン上場記念・オーナーコンヴェンションは、ダイエーグループ・ローソンとしての最後の加盟店向けの行事となった。

全国の加盟店オーナーご夫妻1万2千名をお招きする計画であったから、全体を同日に開催することは物理的にも運営的にも不可能であった。

第一日を東北・関西、第二日を北海道・関西、第三日を関東・東海、第四日を関東・中四国、第五日を九州・沖縄と、五つのグループに分けて約10日間にわたり運営したのである。

福岡ドームを借り切り、グラウンドを会場に、福岡シーホークホテル総力を結集してのまさに未曾有の大コンヴェンションとなった。

このコンヴェンションは、中内さんがオーナーさんたちの前に公式に姿を見せた最後のコンヴェンションであった。

既にローソンはこの年、三菱商事グループ入りを公表していたから、中内さんは心なしか気落ちしておられるようにも見えた。

無理からぬことであるが、まことに寂しいことであった。

(ローソン上場記念オーナーコンベンション(福岡ドーム)

以下次号は、「鈴木貞夫言行録」(第12回)を掲載します。

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