第273話 オーダーメイド蕎麦

     

【挿絵☆ほし】

大晦日の日、「今年お世話になった方に声をかけている」と巣鴨の「菊谷さんから年越蕎麦の会に誘われた。その会では、何と12種のお蕎麦が供されるという。どういうことになるかと興味津々、かつ楽しみだ。
伺ってみると、成るほどお蕎麦大好き人間ばかりが集まっている。私の席には、江戸ソバリエ&フードコーディネーターの山さん、蕎麦ライターの阿さんが先に見えていた。お二人とも、あちこちの蕎麦会でよくお会いする方だ。
阿さんは「眠庵の8種類のお蕎麦を味わう会に参加したことがあるけど、12種は初めてだ」と言われる。むろん私も初体験である。
ところで、「菊谷」さんは最近「オーダーメイド蕎麦」を売りにされている。父上がテーラーをなさっていたことからのネーミングだという。むろん、ご本人も「売出中」で、蕎麦好きの間で「菊谷」を知らない人はいない。
その菊谷流「オーダーメイド蕎麦」とは何か? というと、蕎麦の熟成度をオーダーできるというのである。熟成というのは肉が今流行だが、蕎麦業界では数軒聞くていどで、あまり一般的ではない。
「菊谷」の熟成度には二つのアプローチがある。
一つは、収穫後何年熟成させた蕎麦の実か?
二つは、打ってから何日熟成させたお蕎麦か? である。
つまり【収穫年×打ってから何日目(もちろん「打ち立て」もある)】を前もってオーダーすれば、そのお蕎麦を供しますというのである。
さらには、
・品種別(在来種、常陸秋そばなど)、
・産地別(長野・栄村、埼玉・秩父、栃木・益子、茨城・水府など)、
・割合別(十割、外一、外二など)、
・焼畑天日干、も加わる。
本日の12種も、これらを組合せたものでる。
もちろん茹でる時間は、菊谷さんが判断して決める。

茹で時間といえば、故・石川先生(江戸ソバリエ講師)に仙台市内の蕎麦屋さんに案内してもらったことがある。そのとき先生は、店ごとにお蕎麦を見てから、「50秒、茹でてほしい」という風に「何秒でやって」とオーダーされていた。手打蕎麦はシャイだから、数秒の差は大きい。だから、「○秒茹でて」というオーダーもあり得るのである。

さて今宵の「菊谷」では、こうして組合せたお蕎麦が次々と卓に運ばれてきた。皆さんは、色艶を見て、香りを嗅ぎ、腰を確かめてから、あらためてつゆに付け、啜る。真剣だ。
蕎麦界では、他家受粉植物の蕎麦は、産地別の味覚テストは難しいというのが常識である。それだったら、こうした熟成比較テストは価値があるといえよう。
ただし、これまでの日本文化は比較鑑定するようなことをしてこなかった。やっても、2種ぐらいか、あるいは数種でやっても感覚的に適当にやるていどだ。だから、利き蕎麦的なことは日本の食文化にはあまりない。

といえば、「室町末期からある聞酒は何だ」というお声もあるだろうが、あれは現代の趣味人の比較テストとはちょっと異なる。
昔の量り売りだった時代、酒は水で薄めて売っていた。その薄めた酒に酒の良否を聞く(鑑定)。これが聞酒であって、意味が違うのである。敢えていえば、日本は本物か偽物かを聞く「縦の鑑定」、西洋は産地や品物を比較する「横の鑑定」文化だと私は理解している。
そんな風だから、われわれは6種7種あたりから段々、訳が分からなくなってくる。そうなると、若いころ流行っていたマンガの『明日のジョー』か、『巨人の星』のように根性でがんばるしかなかった。( ほんとうは、こういう自虐的マンガより、痛快な『男一匹ガキ大将』の方が好きだったけど。) ここを乗り切ったら、その先にあるものが見えてくると信じて。
とにかく、12種類の混沌の中で「好みの熟成度は?」と問われれば、私は3日熟成が美味しく感じられた。それから「総合的に一番印象に残るのはどれだろう」と意識しながら食べてみると、そのひとつに両国「ほそ川」さんのお蕎麦のように爽やかで奥深い味のするものがあった。後で、菊谷さんに訊いてみると、やはり「ほそ川」流に常陸秋そばの抜実の緑ッポイ実だけを選りすぐって、挽いたのだという。
それを聞いて、私は今さらながら「ほそ川」のお蕎麦が好きな理由を発見し、そして思った。細川さんは、あらゆる蕎麦を試してみて、これを探し求めたのだろう、と。
ここで阿さんが言った。「12種もの蕎麦を食べたヨ、って明日から自慢できそう」。それを聞いて私は、「成程。それは真理を突いている」。これが今日の蕎麦会の意義であると思った。

とすれば、江戸ソバリエフードコーディネーターやフードライターのような人種は、一度はこのような十数種のお蕎麦を味わい尽くすことや、あるいは徹夜の蕎麦打や、ヘトヘトになるまでの蕎麦屋巡りなど、部活の特訓のごとくに挑んでみるといったことを通過すべきかもしれない。
こうしたことが、鈴木大拙(1870~1966)が言うところの、西洋の分別を越えた東洋の〝〟の境地ではないかと言ったら、「何を大袈裟ナ」と笑われるだろう!

追記
この「蕎麦談義」も230話を越えるというのに、一向に文章上達がみられないのは、やはり「部活の特訓」論もあてにならないか。

参考:江戸ソバリエ講師村田祥先生のお話、鈴木大拙『日本的霊性』(岩波文庫)

〔エッセイスト ☆ ほしひかる