第274話 マイ箸置

     

祖谷のかずら橋 ☆ ほし絵

ある弁護士さんと銀座7丁目の割烹で食事をする機会があった。店はその弁護士さんの行き付けである。卓に座ると、当然ながら箸置に箸が置いてあった。先ずはお絞りを取りながら、何気なく隣の卓へ視線を流すと、何かが違う。何だろうと思って、もうひとつの卓を見ると、箸置が違うことが分かった。他の二つの卓やカウンターは白磁の箸置が用意してある。しかもみな同じ物である。
なのに、私たちのところだけ狸の箸置。それでも、マこんなこともあるだろうと思いながら、意味もなく「狸か」と呟いたところ、「これは私専用の箸置です」と弁護士先生に言われた。
「エッ?」 とっさには意味がわからなかった。
先生は続けられる。「買って、ここに置かせてもらっている」と。
「すると、マイ箸置というわけですか、」
「そう。」
「へえ、初めて聞きましたけど、どうして狸ですか?」
「狸を集めているんだよ」と言って、携帯のストラップを見せてくれた。
成るほど、そこには小狸がぶらさがっている。
この先生とは、もう20年ぐらいお付合をしているが、まったく気付かなかった。それもそのはず、この箸置は最近置いたのだという。
それにしても、「どうして、狸なんですか?」
「たまたま、そうなったんだよ。最初は頂いたんだよ。その人は『この狸親父ッ!』とでも思ったのかな」と言って、先生は笑った。
奥でニコニコしている板さんに「じゃ、先生から予約の電話が入ったら、これでセットするんですか」と声をかけたら、彼は肯いた。
ここの女将は七年前に急逝した。その女将のご夫君が板さんである。今も店の片隅には女将さんの小さな写真が置いてある。
八年前、先生の弁護士事務所の旅行会で、阿波に踊りに行ったとき、最大のレプリカ美術館としてユニークな大塚国際美術館にも立ち寄った。有名なダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のレプリカも飾ってあって、レストランには「最後の晩餐ランチなんていうのがあった。料理研究家の服部幸応さんのプロデュースだった。私と女将は、同じテーブルに座って、その「最後の晩餐」を頂いた。
その旅行会は、現地解散だった。だから私は、一人で池田町の箸蔵寺に一泊したり、祖谷のかずら橋などの「ハシ巡り」をしてから、東京に戻ったのであった。

話を戻せば、これまで「マイ猪口」や「マイ箸」などは耳にしたことがあるにはあるが、実際に実行している人はお目にかかったことがなかった。
ましてや「マイ箸置」は聞いたことがないのはもちろんだし、実際にお目にかかったのも初めてだったので、この欄に書きたくなったというわけだ。

私は、和食と切っても切れない箸には興味をもっているから、箸置にも関心がないでもない。しかしそれはたくさんあり過ぎて、コレクションするのは大変だ。箸も同じで、あり過ぎてコレクションはキリがない。
ただ、私は「蕎麦談義」をする際の教材用として幾つかの箸を持っている。中国の箸、韓国の金属製の箸、アイヌの祭祀用の箸、日本の折箸、そして阿波箸蔵寺の箸など伝説を有する何本かの箸だ。
日本も、平安時代には金属の箸と匙を使っていたようであるから、韓国の箸匙は興味深い。また、それ以前の日本人、つまり九州の邪馬台国人は手で食べていたようだが、その少し後の時代の天皇即位式のお供えにはピンセット状の折箸が用いられていた。このピンセット箸が跳ねないために押さえる物が日本の箸置の始まりではないかと、私は想像している。
とにかく、日本では平安時代の貴族は金属製の箸と匙を使っており、膳にはそれらを入れる舟のようにもの(馬頭盤)があった。その後、室町時代になって、汁椀が使われるようになり、箸だけの食事様式となったため、その馬頭盤は消えた。以後、江戸時代の史料では箸置を見たことがない。現在のような箸置が登場したのは明治からである。

当たり前ではあるが、食事と、食事様式と、食事の道具は切っても切れない関係がある。箸置が登場したのも、お膳がだんだん使用されなくなったからかもしれない。
そんなことをひっくるめて観察するのが食文化探検だろう。と、狸を見ながら思ったりした。

〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる