第303話 第二の舞台

     

紅い蕎麦の花☆ほし絵

蕎麦交流のため、江戸ソバリエの仲間7名が9月3日から「リトル・チベット」とも呼ばれるインドラダックへ行って、今日10日の朝、無事に帰国された。
めったなことはあるものではないが、「念のために」と言って団長さんから緊急連絡先もいただいていた。幸い、それを使うこともなく無時帰国されたことは、本当に何よりだった。
ましてやチーム員7名のうち4名は私より先輩だ。その意欲と行動力に脱帽しつつ、「第二の舞台」という拙文を異なるケースではあるが書いてみた。
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新聞などを見ていると、政界では現首相より元首相が、財界では現社長より元社長といった人たちの発言に「たまには良いことを言ってるナ」と思うことがある。
具体例は当「蕎麦談義」とはかけ離れたものだろうから省略するが、いえることは、現首相は与党代表の立場からしかモノを見られないが、元首相はそれから解き放たれて、日本人としての目を取り戻しているように見える。現社長もまた同様で、どうしても現在の業界や会社の立場で考えがちである。
それゆえに、現○○の人より、元○○の人に大所高所の見識を感じるのだろう。
だったら、現実を執行する人と大きな視点をもつ人が、共に機能する社会構造があってもいいのではないだろうか。
でないと、社会が次第にたるんできて、薄っぺらなものとなるだろう。

さて、わたしたちの江戸ソバリエの講師はいろんな専門家にお願いしている。ところが、ちょうど定年退職された方やお店を跡継に任せられたという方は、たいていの方が「講師役も、そろそろ引退した方がいいでしょう。どなたか若い方はいませんか」とおっしゃる。
この定年とか跡継というシステムは組織の継続としてはいい仕組である。だからといって、冒頭のような視野の違いを見せつけられると、それだけでいいのかと考えることもある。
それに、今の日本社会は逆三角形の年齢構造になっていて、いわゆる「若い人」が少ないのが現実である。かつての高度成長時代のように後輩が後に続いているということはない。

そんなことをある有名な蕎麦屋のAさんに話したら、全く同意見だとおっしゃった。
「自分も息子に店を譲ったとき、引退してこれからは好きなことをやろうかと思った。しかし、辺りをあらためて見回してみると、今は昔のように若者がゴロゴロいるわけではない。幸い自分の店は息子に譲ったが、そうできない人もたくさんおられる。自分の店がバトンタッチしたから、あとは知らないと済ませられるか。転じて、若者一人に高齢者数名が負ぶさっていいのか。そんな虫のいい話で、済まされるのかと気づいた。
ここは逆に、われわれ世代が全ての親になったような気持に立たなければならないのではないか。これが、よくいう「原点に戻る」といことに繋がるだろうが、自分のできる範囲で、自分のできる方法で、やってみようと思うようになった。」
それをまた別の方に話すと、「ベッドの上で100歳まで生きるより、第二の舞台での尽力中に90歳で死ぬ方がいいだろう」と言って元気に笑っておられた。
それから私も、「そろそろ・・・・・・、」と言われたときは、「蕎麦界のために、社会のために大所高所に立った講義」をお願いするようにした。

われわれは先駆けて第二の舞台に立ち、新たな社会観・人生観を模索しなければならないのかもしれない。

〔江戸ソバリエ・ルシック「寺方蕎麦研究会」 ☆ ほしひかる