第358話 天目山栖雲寺

     

= 蕎麦切発祥伝説の地 =

☆天目山栖雲寺 蕎麦奉納の儀
昨年(平成27年)の5月27日(水)だった。蕎麦切発祥伝説をもつ臨済宗建長寺派天目山栖雲寺(三十三世青柳真元・甲州市大和町木賊、)に、蕎麦を奉納しようする江戸ソバリエ14名が参列した。
12時に江戸ソバリエ神奈川の会の木下理事長が、開会を宣言した。すぐに青柳真元住職の読経が始まり、三名が釈迦如来坐像(県指定有形文化財)、普応国師坐像(国重要文化財)、開山業海本浄坐像(県指定有形文化財)に手打蕎麦をお供えした。
聞くところによれば、昭和初期か、戦後ごろに蕎麦奉納の儀が行われたことがあるというから、この度のご縁はほぼ一世紀ぶりの法要ということになった。

☆蕎麦切発祥甲州説
蕎麦切発祥伝説は全国各地にある。その中の甲州説の元となったのは、尾
張藩士の天野信景が残した雑識集『塩尻』である。その宝永年間(1704~11)の条にはこう記述してある。
「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし」。
最後の「信濃人のかたりし」という言葉の意味はよく分からないが、大筋の文意からして「うどんを打つように、蕎麦切を打つ」と作り方を説いているのだろう。
後世からみれば、蕎麦を含む麺は中国大陸で始まり、日本へは鎌倉時代に石臼の伝来とともに伝わったことは明らかであるが、情報のない時代には誰もそのような史実を知らない。そんなときに「うどんを真似て蕎麦切を考案した」なんていう風に、蕎麦切日本発祥説を述べているとまでみるのは飛躍のしすぎだろう。
そういう状況をふまえて甲州説の意味を吟味してみたいが、その前に禅宗がわが国に与えた影響を明確にしておいた方がよい。

達磨によって中国大陸にもたらされた禅宗は、その後は特に南宋で盛んになり、臨済宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗と、臨済宗の分派である黄竜派と楊岐派の五家七宗が成立した。
うち、日本には栄西が臨済宗黄竜派を伝え、道元が曹洞宗、円爾弁円・蘭渓道隆らが臨済宗楊岐派を伝えた。
その禅宗は「生活=修行」であるという教えに特色がある。したがって彼ら留学僧や渡来僧たちは大陸での生活をそっくり日本にもちこんだ。これが栄西のお茶、道元の精進料理、そして円爾弁円の石臼であるが、それは日本の料理史、麺類史からいっても革命的なことであった。とくに石臼はそれまで粒食しか知らなかった日本人に粉食つまり麺類を知らしめたのである。いずれも12世紀末から13世紀半ばのことであった。
さて、開山業海本浄の師である中峰明本(幻住道人とも称する)もまた臨済宗楊岐派十二世に当たる僧であった。その教えを受けての本浄の帰国は円爾弁円より85年後のことであったから、すでにわが国には石臼が伝わり、一部の人たちも麺類を口にしていた。そんな状況からすれば、むしろ本浄自身が8年間の修行生活で身に付いた蕎麦切を直接持ち込み、そして当山に参じた雲水と共に食していた可能性が強いと思う。
小生の、この「甲州説」は、天目山栖雲寺三十三世青柳真元さんのお話を伺ったときに「もしかしたら」と思ったことによる。
真元さんはこうおっしゃった。「実際に、中国の杭州天目山に伺ったら、甲州の天目山辺りの景色とまったく同じであることを知って、鳥肌が立った」と。
私は、このとき開山業海本浄という方の天目山への思い見えたような気がした。
歴史解明の壁にぶつかったとき、主役の人となりを知るなど、文学的手法を用いるのも道である。

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人気の蕎麦マンガ『そばもん』第180話を拝読すると、作者の山本おさむ先生も小生と同様の考えをもっていただいているようだ。
なにせ、小生の小さな呟きとちがってマンガの力は大きい。
どうか甲州説の真実を多くの人が知ってほしいと願っているところである。

参考:ほしひかる「蕎麦切発祥伝説の地 天目山栖雲寺でそばを奉納」(『蕎麦春秋』vol.34)、『そばもん』第180話「そば切り発祥伝説編」(『ビッグコミック』2016.5.25)

〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕