第82話 新蕎麦の呼子鳥

     

「江戸ソバリエ」誕生(九)

 蕎人伝 ⑤酒井抱一

 

 ☆新蕎麦

 新蕎麦はいい。どこが良いかと問われれば食感に若さがあるところだろう。

 「新蕎麦の かけ札早し 呼子鳥」

 これは酒井抱一(1761- 1829)の句である。彼の38歳から44歳までの句集「千束の稲」に載っている。当時、抱一は千束(台東区)付近、つまり吉原のすぐ近くに住んでいた。ある資料によれば柳川藩立花家下屋敷の太郎稲荷(入谷2- 19)の近くだったとか、また別の資料によると大音寺(竜泉1- 21)の近くだったともいうから、入谷2丁目から竜泉1丁目にかけた辺りに住んでいて、そこから吉原へ通う途中で新蕎麦のかけ札を見ての作句であろう。「早」い状況を「呼子鳥」と閉めたところがいかにも江戸っ子らしい。

 それから「千束の稲」には、「新蕎麦の・・・」の句の一つ前に「朝がおや 花の底なる 蟻ひとつ」というのもある。それからすると、そのころから入谷には朝顔の花が爽やかに咲いていたのだろうかと、想ったりする。

 【入谷の太郎稲荷】

 

☆酒井抱一

 さて、この酒井抱一であるが、われわれ凡人からするとまことに羨ましい男である。理由の一つは彼が貴公子だということである。

 姫路藩酒井家初代藩主忠恭(1710-72)の孫(嫡子忠仰(1735-67)の次男)として生まれたが、やがて兄である忠以(1756-90)が姫路藩酒井家の2代目藩主となると、藩主に世継が生まれるまではピンチヒッターとして特別席に控えていた。それが次男坊の役割であるが、つまり兄が2代藩主となった1772年から、将来の3代藩主忠道(1777-1837) が生まれる1777年までの5年間、藩主としての責任はないが、藩主候補として大事にされるという結構なご身分にあるわけである。その当時の抱一の年齢は11歳から16歳ぐらいであったが、現代の感覚でいえば中・高・大学生時代に匹敵するであろう。多感な年ごろであるが、大名屋敷に住む御曹司たちは勉強しようと思うことは何でもできた。お抱え俳諧師、お抱え絵師、お抱え能楽師、お抱え儒者、書家、茶人、書画鑑定家、もちろん武道においても、・・・・・・専任の先生たちについて学ぶことができたのである。姫路藩の上屋敷の主である若き藩主忠以もそうであった。そのうえ彼は多芸多才の趣味人であった。俳諧をたしなみ、絵画を書き、手捻りの茶碗を制作してはプロ顔負けの物を作り、大名茶人として名高い柳沢信鴻、松平不昧らとも交際をもった。当然、次男坊の抱一にも付き合いが及び、俳諧や絵画界の著名人と交流するようになったが、抱一自らも栄明な兄以上の才能の持ち主であった。この才がまた羨ましい理由の二つ目である。

 現に抱一は十代から没年までの終生を通して俳諧を詠み、句稿を執筆した。また絵においては24歳にして見事な「松風村雨図」「布晒し図」を描き、以来絵師として生きたことは周知の通りである。特に「布晒し図」には「玉川にさらす調布さらさらにむかしの筆とさらに思わず」の大田南畝賛があることから、二人の長い交遊関係がうかがえる。

 こののち抱一は、絵の道において尾形光琳(1658-1716)に私淑し、江戸の風流を艶麗に披露するかと思えば、俳諧においては宝井其角(1661-1707)に私淑し、生粋の江戸人として洒脱で都会的な句を披露し、それらが芸術家抱一の特色となった。この到達は日頃からの交際の広さ ― 歌川豊春、橘千蔭、市川団十郎、大田南畝、亀田鵬斎、喜多川歌麿、鳥文斎栄之、山東京伝、― が下地となっていることはいうまでもない。

 どういうことかというと、柳沢信鴻との交際から → (信鴻の俳諧の師)岡田米仲を知り → (米仲の俳諧の師)前田春来 → (春来の俳諧の師)其角にまで辿り着き、1806年に「其角の百回忌」をプロデュースするまでにいたるのである。その一方では、(絵師・書画鑑定家)観嵩月との交際をから → (観嵩月の祖父で材木商でもある)坂本米舟を知り → (米舟の長屋に住む)尾形乾山 → (乾山の兄)光琳にまで辿り着いたが、その過程では知人の一人である谷文晁が、抱一の先祖である上野厩橋藩5代藩主酒井忠挙(1648-1729)がパトロンになっていたという尾形光琳の画風をすすめたことがヒントにもなっているが、1815年には「光琳の百年忌」をプロデュースするという戦略家でもあったのである。

 さらには女性関係であるが、通人で、dandyだった抱一は知的な女性を好み、ひいきにした遊女は、「大文字楼」の一もと、「松葉屋」の粧、「弥八玉屋」の白玉、「鶴屋」の大淀など、いずれも書、茶、和歌に秀でた才色兼備の美女ばかりだった。また「五明楼扇屋」の花扇を描いたという「遊女と禿図」などは武家の女性のように上品で、身請けした小鸞すなわち「大文字楼」の元遊女香川も「墨梅図」「桜花図」などの絵を残しているが、こういう知的な女性に安住したいという向きがあったのだろう。

 俵屋宗達「風神雷神図屏風」Post Card】

 尾形光琳「風神雷神図屏風」Post Card】

 酒井抱一「風神雷神図屏風」Post Card】

 

☆江戸料理通

 才能豊かな御曹司で、女性にもて、なおかつ歴史に名を残した抱一、彼は食通でもあったらしく、こんなエピソードが江戸料理「八百善」に伝わっている。

 あるとき鰹の刺身を食したとき「これは研ぎ立ての庖丁で切ったな」と「八百善」を叱ったという。おそらく砥石の臭いを感じたからであろうが、五官が鋭い抱一らしいエピソードである。

 ここで抱一の物語から逸れて少し述べたいことがある。

 それは「八百善」での例をひくまでもなく、当時の料亭は文人たちの評判次第で盛況を見せていた。見方を変えれば客(文人)が店を育てていたわけであるが、その文人の世界は、士農工商の垣根なしに能力のある者は迎えられたという点である。

 今までもこのシリーズで都市文化(第57話)ということを度々述べてきたけれど、もう少し踏み込めば、京風の都市文化と江戸流の都市文化は異なっていた。すなわち、身分をこえた自由な文化が新都市江戸の特色だということである。

 そんな自由都市江戸の中で人気を呼んだのが江戸蕎麦である。

 よく蕎麦は庶民の食べ物というがそうではなく、以前までは寺方蕎麦や大名蕎麦として食されていたある階級の蕎麦が、江戸の自由人たちの間で身分に関係なく好まれるようになった。それが「江戸蕎麦だ」という風に江戸ソバリエなら理解したいところである。

参考:「江戸ソバリエ」誕生(第46、50、51、53、54、57、58、60話)、村松梢風「酒井抱一」(『本朝画人伝巻二』中公文庫)、江守奈比古『八百善物語』(新文明社 )、玉蟲敏子『酒井抱一』(東京美術)、仲町啓子『酒井抱一』(別冊太陽)、「風神雷神図屏風」(出光美術館)、「夏秋草図屏風」(東京国立博物館)、大田南畝『浮世絵類考』(岩波文庫)、太郎稲荷(入谷2- 19)、大音寺(竜泉1- 21)、向島百花園、

〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる