第85話 静寂の美

     

 

 ☆青磁の潤い 白磁の輝き 

 好きな者は好きな物を見ただけで胸がどきどきする。

 戸栗美術館の階段を上がっていった2階のすぐの部屋に、青磁に花を描いてある皿が飾ってあった。「きれいだ!」と私は目を奪われてしまった。

 今日は、戸栗美術館(渋谷)の学芸室長中島先生を訪ね、用件が済んでから、展示中の「青磁の潤い 白磁の輝き」を拝見させていただいた。青磁・白磁は、もちろん伊万理物である。白磁の蕎麦猪口も展示されていたが、この猪口で蕎麦を食べたら緊張のあまり食がすすまないのではないかと思えるほどの逸品であった。

  青磁は中国の後漢時代にはすでに基礎が完成していたというが、3世紀前後の三国・晋の古越磁、唐の越州窯、宋の汝窯・官窯・龍泉窯・・・と長い歴史を通してさらに発達し、「空の蒼さと湖水の碧さ」と例えられるような簡潔で崇高な美しさを獲得してきた。

 一方の白磁もまた起源は6世紀、南北朝後期・北斉と古く、唐・宋時代に黄金期を迎えている。白い素地に透明の釉薬がかかった白磁は、もっとも純粋な焼き物としての風格がある。

 こうした中国の磁器文化、とくに宋の影響は大きく、まず隣国朝鮮におよび、9-10世紀には「高麗青磁」が生まれた。この高麗青磁は後に象嵌技法という特色をもったことで知られている。続く李朝時代になると、優美な所謂「李朝白磁器」が生まれた。

 日本の磁器は、中国発朝鮮経由で豊臣時代に入ってきた。そのためか、先輩格の中国や韓国の陶磁器類はかんろく充分で、素晴しい。利休ら古の茶人をはじめ、近代では柳宗悦らが中国、朝鮮の器に魅かれるのももっともである。中国の故宮博物館や韓国の国立中央博物館で、青磁・白磁を含めた古い磁器を見れば、その歴史や底力に、胸が押しつぶされるような感動を覚える。

 私もソウルに行ったとき人間国宝の柳海剛(1894-1993)の高麗青磁や安東五(1919-1989)の白磁の花瓶を購入したことがある。

  こうしたアジアの青磁・白磁にはひとつの共通した特質がある。それを「静寂の美」と表現する人もいるが、そこからわれわれ日本人は〝わび〟を見い出した。

  一方の西洋では、東洋の磁器は宝石以上に価値あるものとして求められ、18世紀には製磁が始まった。それが絢爛豪華なマイセン磁器であることは、すでにご承知のことと思う。デパートや趣味の本には、眩いばかりの金色や艶やかな紅色、吸い込まれるような深い青やときめく緑色に塗られたティーカップが王室文化の紹介とともに掲載されている。見ているだけで、耳に春のワルツでも流れてくるようで、その時すぐにカップを手にして紅茶でも飲みたくなってしまう。またそうしたとしても決しておかしくないところが西洋の磁器には備わっている。

 なぜだろう? この現実感覚は磁器ばかりではない。今日、家でバッハやショパンの音楽を聞いても(もちろんCDだが)、マネやゴッホの絵画を飾っても(もちろん複製だが)、違和感はない。西洋文化とは不思議なものである。

 ところが、江戸の音楽を自宅で聞いている人は少ないだろう。雪舟の水墨画や、北斎・広重の浮世絵を飾っている人は少ないだろう。青磁や白磁の器でお茶を飲んでいる人は少ないだろう。なぜなのか。

 西欧文明が押し寄せた一昔前、「身は西欧に許しても、心はアジア」などと江戸時代の遊女のようなことを言う者がいた。近代の超克に悩む文士たちもいた。しかし、そんな憂いはもう現代人に一片もない。日本文化は遠くて高い所へ行ってしまったのだろうか。

  それにしては、なぜ私はここにいるのだろうか。

 まだ私たちに〝静寂の美〟に安住したいとする気が潜んでいるのだろうか。

 それとも遙かなる遠い世紀のロマンとして受け止めたいのだろうか。

 そんなことを思いながらも、私はミュージアムショップで戸栗美術館の伊万里の蕎麦猪口を求めた。 

参考:戸栗美術館「青磁の潤い 白磁の輝き」

    http://www.toguri-museum.or.jp/home.html

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる