第97話 都鄙の研究Ⅱ

     

 

☆「あやめの女」に見るファッションの系譜

 明るい藍地に目も醒めるばかりのあやめの大柄模様、それから脱け出た若い女性の肌の清らかな香気、さらにバラ色に染まったような耳のあたりの艶っぽさに女の匂いが漂ってくるような、そんな色彩と構成とが素晴らしい。

 女の後姿を描いた絵としては、佐賀美術館の岡田三郎助画「あやめの衣」(1927年)は最高の作品であろう。

 岡田三郎助「あやめの衣」PostCard】

 幕末から明治にかけて最も先進的なクニであった佐賀は、多くの油絵画家を出した。百武兼行、久米桂一郎、岡田三郎助、古澤岩美らがそうである。

 そのうちの岡田三郎助(1869-1939)は、佐賀市内の「八幡小路」という所で生まれた。「八幡」は龍造寺八幡宮のことであり、「小路」は文字どうり小路であるから、龍造寺八幡宮の通りのことであるが、「小路」は佐賀弁で「くうじ」と発音する。そこで生まれた三郎助は3歳で父にしたがって東京に出て、鍋島候の屋敷内に住んだ。邸内には佐賀出身の洋画家百武兼行(1842-84)の絵がたくさん飾ってあった。子どものころから絵が好きだった三郎助はそれを見ながら絵ばかり描いていた。そのうちに実家が同じ八幡小路である久米桂一郎(1866-1934)の紹介で黒田清輝(1866-1924)と知り合って、画塾「天真道場」に入り、そして「白馬会」の創立に参加した。

 余談であるが、久米桂一郎の父邦武は。明治4年(1871)、岩倉使節団の一員として欧米を視察。帰国後に、『米欧回覧実記』を編集した人物であるが、画塾「天真道場」の名付親でもある。

 1897年、三郎助はフランスに留学、久米や黒田が学んだラファエル・コラン(1850-1916)に師事した。そして1902年に帰国し、東京美術学校の教授となり、藤島武二と「本郷洋画研究所」を設立し、高村豊周、長原孝太郎、藤井達吉らと「装飾美術家協会」を結成した。

 この岡田三郎助の代表作が「あやめの衣」であるが、名作はどうして生まれたかを考えるのも面白いと思う。

 三郎助という人は何にでも興味をもっていたらしい。趣味が広く、短剣・小刀、古陶磁器、李朝木工、唐墨、時計、ガラスなど何でも集めていた。

 なかでも「裂」は『時代裂』の編著書があるくらい本格的であった。三郎助の「裂」への興味のきっかけはフランスのリヨン織物博物館で古代・中世の精巧な織物を見た日からといわれているが、彼の耳には幼いころ母が織っていた手機の音が残っていただろうし、瞼には故郷の美しい佐賀錦の輝きが映っていたのだろう。三郎助の夫人八千代(作家小山内薫の妹)は「あの人は、モデルの私ではなく着物を描くのが目的だった」と語っているほどである。

 こうした三郎助のコレクションは現在、遠山美術館と松坂屋京都染織参考舘に収まっているが、彼の関心の的であった裂と絵のコラボが傑作「あやめの衣」を誕生させたことはまちがいない。見方を変えれば、彼の人生は「あやめの衣」に向かって真っ直ぐに突き進んだ一生だといえるのかもしれない。

 さて、先に菱川師宣、今回は岡田三郎助を引っ張り出したのは、絵の談義をするためばかりではない。故郷を飛び出して、都会で活躍した者を見ながら、都会の文化とは何かを考えるきっかけにしたかったのである。

 「見返り美人」⇒ 「あやめの衣」 。大和の絵師師宣と三郎助は、帯や着物の柄を描くために西洋にはない独自のスタイル = 「後姿」を着想し、画壇に画期的な絵を遺した。

 このような偉業を成し得たのも、江戸東京という文化都市= ファション都市に刺激をうけたからこそではないだろうか。 

 

都鄙の構図

 わが故郷の麺の話をしよう。

 昔から麺処佐賀の一般家庭での昼食は、夏は涼しげな〈ソーメン〉、冬は温かい〈うどん〉というのが今も一般的である。そして佐賀市内の家庭への麺の供給は隣接する神崎地区からである。つまり市内()が消費地、郡部()が生産地という構図である。

 そのためか、佐賀では「仁井山うどんに、佐賀下地」と言われてきた。仁井山というのは神崎の一部のこと、下地とは出汁の効いたつゆ(佐賀弁では「シュン」)のことであるから、つまりうどんその物は産地の神崎仁比山()にかぎるが、味付けは城下町佐賀()の味が最高だ、という意味である。

 おや! この台詞、どこかで耳にしたことがある。そうだった! 江戸時代、紀伊田辺藩安藤家の医師が江戸に出て来て、「江戸の蕎麦汁は最高だ」と断言していたではないか。そればかりか、近代でも田山花袋『時は過ぎゆく』で、志賀直哉「豊年虫」の中で、「蕎麦は地方()でも旨いが、つゆは東京()のものに限る」と述べているではないか!

 食材は産地()にかなわないが、それを料理する技法は都市の方が優れているということを近世・近代から言ってきているのである。

 料理も文化に成り得る。その「文化は鄙で生まれ、都で育つ」という。

 そうした「都鄙の構図」は、イワカムツカリの伝説のようにすでに45世紀から見られるようである。

参考:ほしひかる蕎麦談義」 (第40、56、90話)、佐賀県立美術館(佐賀市城内)、松本誠一『岡田三郎助』(佐賀城本丸歴史舘)、久米美術館(目黒区目黒駅前)、久米邦武『米欧回覧実記』(岩波文庫)、田山花袋『時は過ぎゆく』(新潮社)志賀直哉「豊年虫」(岩波文庫)

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕