第162話 江戸蕎麦めぐり⑥

     

日本最初の蕎麦屋 

☆最初の蕎麦屋

 蕎麦屋の最初はモノの本によると、次のようにいわれている。

 ◎年代は不明、瀬戸物町(中央区)の「信濃屋」が初めて「けんどん蕎麦」を開店との説がある。

 ◎1662年ごろの書に、新吉原江戸町(台東区)の仁左衛門(あるいは仁右衛門)が「けんどん蕎麦」を開店とある。

 ◎1664ごろ、伊勢屋が浅草(台東区)で「正直蕎麦」を開店したと伝えられる。

 ただ、これらはそのころ刊された書に記録されたり、伝えられていることであって、正確な開業年ではない。だから詳細は不明である。

 いえることは、1660年ごろ、わが国で最初の蕎麦屋が、中央区または台東区に誕生したということである。環境としては、1645年刊の『毛吹草』には武蔵国は蕎麦が名物だと紹介してあるから、機は熟していたようである。

  ここで少し目を外に転ずれば、「日本で最初のレストラン、または外食産業はいつから開始したか?」という問題がある。

 解答を先にいえば、一般的には「明暦の大火(1657年)後に、浅草待乳山聖天の門前に『奈良茶』という茶漬屋が開店した」のが、わが国最初の外食屋ということになっている。要するに、簡単な茶漬がわが国最初の外食屋であり、日本人はそれ以前にはお金を払って外食はしていないのである。

 蕎麦屋の初登場も丁度このころだった。ただし、私見では茶漬屋が少し先で、蕎麦屋はその直後であると考える。

 そして、その形態は茶漬屋と同様、先に述べたような〝簡単〟な「正直蕎麦」や「けんどん蕎麦」だった、というのが私の歴史の観方である。

 これまでは、「正直」や「けんどん」の字句解釈にばかりとらわれて、日本人が外食するようになったのはいつからかという問いを置き去りにしてしまってきたが、いま必要とされているのはダイナミックな歴史観であると思う。

 

 ☆都市文化学

 ところで、先の第161話で述べた「深大寺蕎麦学」は都内のことではあるが、深大寺地区の土を愛する《地域学》である。だから、深大寺の土で蕎麦を育てることが、「深大寺蕎麦学」の基本になる。

 では、「江戸蕎麦学」はどうか? これは江戸という都市における食を学ぶ《都市文化論》あるいは《都市文化学》である。

 芭蕉は「蕎麦は江戸の水によく合う」と表現したが、生まれは地方であっても都会の空気によって、より洗練された食べ物に生まれ変った蕎麦について学ぶのである。

 蕎麦屋のBGMにはジャズがよく合う。蕎麦もジャズも生まれは地方だが、都会の空気によって、洗練されたものへと脱皮したからである。

 こうした《都市文化学》と先の《地域学》の違いを知るのが江戸ソバリエの講座の目的のひとつでもある。

  蕎麦の都市文化学で重要なことの一つは、老舗の蕎麦屋、あるいは暖簾店を知ることである。

 だから、江戸ソバリエ認定講座記念講演会においては「老舗の蕎麦屋の旦那衆」という座談会を企画し、『江戸蕎麦めぐり。』では老舗蕎麦屋を中心に編集し、『蕎麦春秋』誌では「暖簾めぐり」を連載している。

 

参考:江戸ソバリエ協会編『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)、ほしひかる暖簾めぐり」(『蕎麦春秋』)、『毛吹草』(岩波文庫)、植原路郎『蕎麦の辞典』(東京堂出版)、植原路郎『そばの本』(柴田書店)、

 〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕