第65話 真崎式製麺機の開発

     

 蕎人伝 ③真崎照郷

 

☆神崎の麺 

 佐賀県の神崎は麺処である。その歴史は明確ではないが、寛永年間に小豆島から一人の雲水がやってきたことが始まりだと伝えられている。名も知れぬその雲水は旅の途中、長崎街道神崎宿で病に倒れてしまった。それを助けたのが神崎の小間物商伊之助であった。病状が回復した雲水は「感謝のしるしに」と伊之助に素麺の作り方を伝授した。以来、神崎で麺作りが始まったのだという。 

 そして、島原の乱(1637年)のころには長崎街道を往来する武士たちに神崎の素麺はたいへんに重宝されたと古文書には記されているというから、神崎麺は九州で最も古くから生産されていたものと思われる。

 

☆発明王 真崎照郷 (嘉永4年~昭和2)

 その神崎麺に革命をもたらした人物がいる。明治時代、佐賀の「発明王」ともいわれた真崎照郷である。

 照郷は若いころは政治家を目指していたが、明治7年に佐賀ノ役が勃発したことに衝撃を受けた。このとき彼は「天下の政は、その時々で変わるが。真理の道は変わるものではない」との教えを知り、発明の道に進むことを決意したという。

 現に照郷は明治7年、「真崎円度」という測量器を作り、続く明治9年ごろ錦操機械からヒントを得て、麺を作る機械の発明を思いついた。この間、家業は破算し、世間からは狂人と呼ばれたが、昼夜研究に没頭。

 そして明治16年にロール機を開発し、明治21年製麺機械としてわが国初の特許を取得したところ、県内の製麺業者はいちはやく真崎式製麺機を導入したのである。その後、明治36年には大坂で開かれた第5回勧業博覧会に真崎式製麺機を出品して大人気、全国にも知れ渡った。

 ところで、なぜ佐賀に真崎照郷なる発明王が生まれたのだろうか。

 こんな話がある。司馬遼太郎の史観である。彼は『アームストロング砲』の冒頭でこんな風に書いている。

 ― 幕末、佐賀藩ほどモダンな藩はない。軍隊の制度も兵器も、ほとんど西欧の二流国なみに近代化されていたし、その工業能力も、アジアでもっともすぐれた「国」であったことはたしかである。佐賀藩の「文明」にくらべれば諸藩など、およびもつかなかった。―

 幕末、明治のころの佐賀は、文明輝く風土だったのである。

 われわれ蕎麦好きは手打ちを歓迎するが、しかしよく考えてみると、明治以降の日本人が麺類好きになったのは、真崎の開発によって麺類業界が大いに発展したことにあると思う。そして、追い打ちをかけるように昭和33年にインスタントラーメンが登場し、さらに裾野は広がったのである。 

 そんなことを知っているのか、知らないのか、佐賀市に流れる巨瀬川の畔に真崎照郷翁の碑が静かに建っている。

 

真崎照郷の碑 佐賀市巨瀬町

 

   〔蕎麦エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員 ☆ ほしひかる

  参考:真崎照郷の子孫氏の話、司馬遼太郎『アームストロング砲』(講談社文庫)、