第122話 「蕎麦稲荷」謎解きツアー

     

☆八百屋お七伝説 

 森鴎外に『寿阿弥の手紙』という作品がある。

 もちろん寿阿弥という人が主人公であるが、その先祖だというお島なる女性も主人公の一人である。そして、そのお島の影にあの八百屋お七と、伝通院住職の祐天上人がからんでいるから面白い。

 お七はよく知られた女性だが、祐天という上人の方は駅名の「祐天寺」の人といえば「ああ、そう」ということになるだろう。江戸時代には「狐落しの祐天」とも呼ばれ、現代風にいえばエクソシストのようなちょっと怪しい僧であったらしい。

 その祐天上人が住職をしていた伝通院の塔頭には「蕎麦稲荷」の別称をもつ澤蔵司稲荷の別当慈眼院(文京区小石川3-17-12)がある。 なぜ、「狐落しの祐天」が伝通院の住職なのか? イヤそもそもが、なぜ伝通院の塔頭である慈眼院に蕎麦稲荷の伝説があるのか? 蕎麦オタクとしてはちょっと気になるところである。

 というわけで、『寿阿弥の手紙』、ならびにお七の伝説を振り返ってみることにした。

 先ず、お島と八百屋お七は幼馴染だという。なぜかというと、お七の家の地主河内屋半兵衛の娘がお島だかららしい。

 で、この二人の少女の身にはとんでもない人生が待っていた。

 1683年1月25日正午、駒込大圓寺から出火した炎は、北東の風に煽られ翌日の朝5時ごろまで燃え続けた。お七一家は菩提寺である圓乗寺に避難した。そこで美少年と知り合い、お七は恋に狂う。心配した親は引き離すが、恋の炎は消すに消せない。もしかしたら、もういちど火事になれば会えるかもしれないと我を見失い、自宅に火を付けて囚われ、火炙りの刑となってしまった。

 鈴ケ森の刑場は海からの風が強い。火は燃え盛り、処刑者は獣のような声を出してもがき苦しむという。最初は見物人も山のように取り囲んでいただろうが、たいていは居たたまれなくなってその場を去ってしまう。その中に最後まで佇んで地獄を見続けた若者がいた。それはお七が恋焦がれた相手であった。彼は縁あって目黒のお寺で出家して西運と称した。そうして1万日の念仏行を決意し、目黒から浅草までの40キロを27年と5ケ月、念仏を唱えながら往復した。西運は偉業達成の後に常念仏堂を建て、急坂(後に「行人坂」と呼ばれるようになった)に石畳を敷いたり、目黒川に橋を架けたりしたと伝えられているが、その常念仏堂は今はない(現在中国料理「雅叙園」)。明治になって寺は、行人坂の途中の大園寺(目黒区下目黒)に合併され、西運の墓もその裏山にある。

 ところで、この駄文を書くに際し、文京区内の大圓寺(文京区向丘)、お七の家(東大正門前辺り)、圓乗寺(文京区白山)と歩いてみたが、東大前にあったお七の家は、火元である大圓寺から離れている。であるのに、避難先の圓乗寺は火元の大圓寺に近い。なぜ、わざわざ火元近くの大圓寺に避難したのだろうか? 風向き、火の勢いのせいだろうか、などと想ったりした。もちろん、火元、お七の家、避難先には異説があるが、一応上記が定説となっているのだが・・・・・・。

☆お島物語

 さて、問題のお島は水戸徳川家のお屋敷に行儀見習として上っていた。そのお島は、二代目藩主水戸光圀のお手がつき、宿下がりして赤児を生んだ。しかし水戸家は認めない。お島は菓子屋の西村家の5代目廓清の元へ子連れで嫁いだ。後に水戸家は生まれたのが男児と知って、実子として容認しようとするが、成人して6代目となったお島の子東清は「勝手だな。これまでおれを育ててくれた菓子屋の方がまだマシヤ」と言って、店の名前を「真志屋」に変えた。この菓子屋は水戸家御用の菓子屋として幕末まで続いた。

 森鴎外は、その真志屋の菩提寺昌林院(傳通院の塔頭の一つであり、傳通院の近くに在ったが、今はない)に通ったとき、ある物を見せてもらった。そのある物とは、お島が水戸屋敷に上がるとき餞別にとお七が贈った袱紗であった。

 鴎外が袱紗を開けると「南無阿弥陀仏」の六字と、その両辺に「天下和順」「日月清明」、下に「祐天」と署し華押がしてあったという。

 「南無阿弥陀仏」は六字名号である。これを称える易行によって仏への道を歩もうという信仰である。お島が嫁いだ西村家は浄土宗であったのだろう。「清明」とは、二四節気の一つ、春分の日から15日、つまり3月19日ごろを指す。「祐天」は傳通院17世(在位:1704~1710)のことであるが、実はこの僧が曲者である。どういうことか? すこし「祐天」ツアーをやってみよう。

 先ず目黒の祐天寺(目黒区中目黒)を訪ねる。ここは祐天上人の弟子祐海が建てた寺である。境内には「累塚」や巨大な絵馬がある。歌舞伎「累物語」上演に際して建てられたという。

 その物語は、祐天が飯沼の弘経寺(水海道)の修行僧だったころ、羽生村の百姓累(かさね)の怨霊を済度した、いわゆる「狐落し」の話に因むものである。

 私が弘経寺を訪門したときは境内一面、彼岸花が真ッ赤に燃えていた。近くの法蔵寺には累の墓もあったが、昔のことだから、偶々「狐落し」に似たようなこともあったのだろう。しかし、祐天はこの貴重な体験を活かした。

 祐天は、この後に弘経寺を離れて江戸に出て、六字名号の功徳、念仏の弘通を中心とする布教活動を始めた。ここまでは普通の話であるが、彼が配った「六字名号」のお札は何と30万枚を越えるという。元禄時代の江戸の人口は100万人ちかいといわれるが、1家に1枚は配布したとするなら、大ベストセラー並である。またこの間に『死霊解脱物語聞書』、すなわち「狐落し」の体験談+自叙伝を弟子に書かせた。そのため、今でいえばテレビの占いか、スピリチュアル番組に登場するような人気者となったのである。

 

祐天上人

 ご覧の通り、1858年に刊された『利根川図志』の挿絵には、成田山新勝寺で修行する祐天の物凄い絵が描かれている。また祐天寺の絵馬は雲に乗った祐天上人の姿である。とにもかくにも、祐天の虚像と実像は膨らみ、お蔭で綱吉の母桂昌院を筆頭に大奥の女たちの支持を獲得し、とうとう桂昌院の推挙で、弘経寺、傳通院、増上寺と出世階段を登り詰めるのである。もちろん浄土教団は猛反対だったというが、桂昌院のゴリ押しは通った。

 話を袱紗に戻せば、そんな祐天に「天下和順」の字は似合わないと思うが、自分のような無名の僧が出世できるのは天下和順だからだと言いたかったのだろうか。まあ、それはともかく、祐天は1704年~1710年に伝通院の住職であったが、このうちの何年に、お島は祐天上人から六字名号のお札をもらったのだろうか? それは、あるていど推定できなくもない。

 というのも、袱紗はお七にもらったものである。その袱紗に六字名号のお札を包んでいるということはお七を供養してのことに他ならない。お七の命日は1683年3月29日である。お島と祐天が出会えるのは伝通院の住職の間であろうが、この間のうち1704年が23回忌、1708年が27回忌に当たる。そのいずれかの年の「清明」つまり3月19日にお島は幼馴染のお七を偲んだのであろう。このあたりのことをさらに空想していけば、数寄な人生を辿った「お島とお七の友情物語」ができるだろう。

☆澤蔵司稲荷伝説

 さてさて、蕎麦通なら誰もが知っている「澤蔵司稲荷伝説」であるが、これは二つの伝説から成っていると思う。

 その一 ― 1618年4月7日のこと、伝通院の廓山上人のもとに一人の修行僧が入門してきた。名を澤蔵司といい、わずか3年にして一切浄土の奥義を究めたという。然るに1620年5月7日のこと、澤蔵司は廓山上人と、院の学寮主極山和尚の夢の中に現れて「私は千代田城内の稲荷大明神なり。ここに浄土の法味をうけて長年の大望が達せられた。今から元の神に帰るが、当山を永く守護するから、一社を建てて稲荷大明神を祀りなさい」と言う。さっそく廓山上人は慈眼院を建立した。

 廓山上人は甲斐武田氏の家臣高坂昌信の次男で、家康のブレーンだった。後に増上寺13世に就いたほどの人であるから、これは江戸城と廓山上人の結びつき、または徳川家が浄土宗であることを表した挿話であろう。

 その二 ― とあるころ、伝通院の門前に蕎麦屋があった。澤蔵司は、そこで毎晩のようにお蕎麦を食されたという。主人もまたよく澤蔵司の徳を慕い、あるときから社前に蕎麦を献じるようになった、と伝えられている。

 一転して庶民的な伝説になるが、江戸に蕎麦屋という商売が登場するのは1657年~1664年であると私は考えているが、小石川界隈の蕎麦屋となると、もっと後ということになろう。あの、小石川に住んでいた恋川春町が『うどんそば化物大江山』を書いたのは、1776年であるから、そのころなら伝通院の門前に蕎麦屋があってもおかしくない。だから、廓山上人の時代の澤蔵司が蕎麦を食べるというのはありえない。

 ただし、神様は死なないだろうから、廓山上人の時代の澤蔵司があとになってノコノコ出て来て蕎麦屋に通ったということになる。これなら一応理屈は通る。じゃあ、それはいつごろか? 

 その回答が川柳「澤蔵司 天麩羅蕎麦が 御意に入り」であろう。この川柳が生まれた1818~1830年間に、それまで眠っていた澤蔵司が大好きな天麩羅の匂いに誘われてノコノコ出て来た、となると話の筋は通る。

 それにしても、なぜ澤蔵司は200年もの眠りから覚めたのか?

 その目覚まし時計の役になったのが、4代目鶴屋南北である。1823年、祐天の『死霊解脱物語聞書』を下敷にして書いた歌舞伎「累物語」が大当たりした。江戸っ子の間で狐ブームが起きて、あの知識人である滝沢馬琴、大田南畝ですら、狐落しに大いに興味を示したほどであった。折しも、江戸では天麩羅蕎麦が流行り出していた。「ぶっかけ」を「かけ蕎麦」と呼び始めるのは1789年ごろであるが、その少しあとに天麩羅蕎麦が登場したのである。

 ともあれ、この二つのブームによって「澤蔵司稲荷」伝説は誕生した。これが私の謎解きツアーの結論である。

ブーム《天麩羅+狐》⇒ 「澤蔵司稲荷」伝説の誕生

 とするのはいかにも現代的であって、本当のところは狐のもつ霊気によって生まれたのであろう。

  ひとつ言い忘れたことがある。

 なぜ天麩羅+狐か? または、なぜ天麩羅=狐か?

 稲荷の神獣が狐であることは相当古くから伝えられているが、狐が油物が好物であることも古くから云われている。鎌倉時代に成立した謡曲「狐」にもそれらしき描写がある。

 ということをふまえて、ある稲荷社の宮司さんに「なぜ、天麩羅=狐か?」と尋ねてみたら、「稲成り 黄金色」という関係ではないだろうかとおっしゃった。

 つまり、「狐 →稲荷 稲成り 黄金色 天麩羅」ということになるのである。

  もうひとつ付け加えたい。この伝説を今も守り続けている蕎麦屋がある。「萬盛」(文京区春日)だ。ご主人は毎日その日一番の蕎麦を慈眼院の澤蔵司稲荷様にお供えされておられる。

 伝説が今も生きていることが、この話の一番大事なところだ。

 他で見つけたお稲荷様

 「蕎麦稲荷」謎解きツアー:慈眼院澤蔵司稲荷、傳通院、萬盛庵、祐天寺、弘経寺、法蔵寺、成田山、駒込大圓寺、圓乗寺、目黒大円寺、

 参考:森鴎外『寿阿弥の手紙』(ちくま文庫)、『於大の方と傳通院』(傳通院刊)、赤松宗旦『利根川図志』(岩波文庫)、

 〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる