第148話 外食産業の芽生と発展

     

 

 ご存知、広重は『江戸名所百』の中で2枚、蕎麦屋を描いている。

 一つは安政4年(1857年)11月「虎の門外あふひ坂」、もう一つは安政5年(1858年)8月「日本橋通り一丁目略図」である。

 虎の門外あふひ坂☆ほし蔵

 広重が「あふひ坂(葵坂)」で描いた石樋は、現霞が関ビルと特許庁前の交差点である。絵の向こうの老中内藤紀伊守の中屋敷の建っている丘は首相官邸。溜池の畔では名もなき屋台蕎麦屋が商いをしている。屋台の語源は屋根の付いた台(祭礼の山車などの引き物)である。それが物売、外食屋に利用されるようになった。江戸時代は店舗販売が少なく、商いは売り歩いてする時代だった。その屋台蕎麦屋は火と食材は運んだが、食用水や洗い物用の水は川や堀の水を利用した。それが当時の生活習慣でもあった。だから、川などの畔には屋台が現れたのである。

 日本橋通り一丁目略図☆ほし蔵

 広重が「日本橋」で描いた白木屋とその隣の蕎麦屋「東蕎庵」の跡地には今「COREDO日本橋」が建っている。見ての通り、「東蕎庵」は白木屋に引けをとらぬほど立派な店構えである。それもそのはず『江戸名物酒飯手引草』(1848年刊)には御膳生蕎麦の名店として「東蕎庵」が紹介されてある。広重がこれを描いたのは『江戸名物酒飯手引草』発刊の10年後だが、江戸初期には屋台や小さな店ばかりだった外食産業も江戸中期からは世界に先駆けて発展して大きくなっていったのである。

 というわけで、江戸の蕎麦屋には一流の名店もあり、名もなき屋台もあったということを私は言いたい。

 ところがである。世間の人が、この2枚の絵を見たときに【あふひ坂】の方を「蕎麦屋を描いている絵だ」と思うことが多い。そしてそれが積み重なると、「蕎麦屋というのはアレ(屋台)だ、アレでなくてはならない」ということになってしまう。こうしたイメージが一人歩きすると、「蕎麦はもともと庶民の食べ物だった」とか、「蕎麦は江戸のファストフードだった」とかの説になり、真実とは大きくかけ離れてしまうことになる。

 そうした間違いを犯さないためには、背景としての歴史や文化、すなわち「庶民の台頭外食産業の芽生」という江戸時代の特質を理解しなければならないだろう。

 時代は新たな主役をつくるし、主役が時代を変える。雅な貴族は過ぎた大昔の時代、昨日までの戦う武士も平和の時代にはもう不必要といわれる。代わって台頭してきたのが商う町人である。

 そうして江戸時代になると貨幣経済が発展し、庶民も生活のゆとりが出てきた。お金を出して飯を食いたいという人間も生まれ、明暦の大火後に日本初の外食屋ができた。それが浅草の「奈良茶屋」だといわれている。茶粥を供する簡単な食堂だ。続いて、蕎麦を簡単に提供する店も出てきた。

 室町時代から存在していた蕎麦は、かつては武士や僧侶たちが食事会の最後の「後段」として食べていたことは、このシリーズでも何度も述べてきた。それを後段から独立させたのである。それが「けんどん蕎麦」とか、「正直蕎麦」とか呼ばれる店だ。

 当時の料理屋は今から見ればいずれも、簡単な食い物を提供する小さな店だった。それをよく蕎麦屋だけをことさら「チョイと手軽に食える店だった」とか「だから、蕎麦は庶民の食べ物だった」とか云う人がいるが、そうではない。「江戸初期は外食産業の夜明けだった」と認識しなければならない。

 それにこの時代は、食堂ばかりでなく、物販においても店舗販売というのはめったになく、多くは御用聞きや、歩いて物を売ることが主体であった。だから、魚でも野菜でも食い物でも屋台を引いて町内を回りながら売っていたのである。

 しかし、江戸中期以降になると、広重描く「東蕎庵」のように有名店が現れるようになった。が、その一方では無名の屋台も相変わらず生き残っていた。

 そんな屋台をよく「現代のファストフード」とたとえる人がいるが、歴史あるものを新顔のファストフードにたとえることは失礼だし、蕎麦文化、日本の食文化というものを浅いものにしてしまう。

 それに、屋台とファストフード店では精神が異なる。ファストフード店が目指すのは安価で早くということから、「いつでも、何処でも、同じもの」という機械作りの金太郎飴(金太郎飴にたとえると、金太郎飴にも失礼になるが・・・)であるが、屋台は決してそんなことはない。同じく、安価で早いようでも、手作りの精神を失ってはいない。

 だから、「現代のファストフード」という安ッポイ表現はさけて、屋台はきちんと「屋台文化」として認識すべきである。

 話が少し横道に入ってしまったが、ともあれ広重が筆を取った安政年間(1854-59)というのは大変な年であった。安政の大地震(伊賀上野、東海、南海、豊予、飛騨、江戸、飛越の地震)、コレラ流行、ペリー来航、安政の大獄、桜田門外の変・・・・・・。

 激震の世だからこそ、彼は今の江戸の景色を描き残しておきたかったのであろう。

 だとしたら、われわれ蕎麦好きはこの二枚の絵から「外食産業の一役を担った蕎麦屋の芽生と発展」をきちんと汲み取るべきであると思う。

参考:ほしひかる「蕎麦談義」(第134、87話)、ほしひかる「(日本そば新聞「蕎麦夜噺」)、

望月義也『広重名所江戸百景』(合同出版)、原信田実『謎解き広重「江戸百」』(集英社新書)、

 〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕