第359話 哀しみの六兵衛、再び

      2016/06/16  

挿絵22

島原鉄道に乗って島原へやって来た。ここは「夢想 吾妻鏡」というエッセイ集を出版するときに訪れたことがあるから、それ以来の「再びの島原」になる。
なぜ「吾妻鏡」にしたかといえば、わがルーツは武蔵野国比企郡(東松山市)の辺りの武士だったらしく、祖先が頼朝に仕えたことなどが歴史書の『吾妻鏡』に載っていたからである。
そのご先祖様は当時、高城西郷荘・東郷荘と呼ばれていた一帯(現在の島原半島の瑞穂町辺り)の惣地頭に任じられた、と1221年の『関東下知状』に記録があるらしい。しかし、当時は現在の転勤とは違っていて、真実は「あの一帯が幕府に従っていないから、鎮圧してこい」という命令書である。
有名な島津氏も、大友氏も、毛利氏もそういって派遣され、赴任地を武力で刈り取って、後に領主となったのである。
後代、よく信長が明智光秀に「山陰を切り取った分だけ領地にしてよい」との命令を出したことを、左遷だとか、冷遇だとか言う人がいるが、それは現代の目から見た勘違いだ。「武力制圧」は武士本来の仕事だったのである。

さて、島原半島へやって来たわが先祖はどうなったか?
一族はがんばっただろうが、残念ながら敗れて四散、その一部が有明海沿岸から佐賀へやって来た。だから「現在の私がいる」のである。
ただ、ご先祖のために一言弁明すれば、この後も鎌倉から派遣されて来た地頭たちは次々と敗れてはみな土着している。それが続いて長崎はとうとう大きな戦国大名が出てこなかった。だから、常に薩摩の島津氏、佐賀の龍造寺氏の圧迫を受け続け、一時だけ突出していた有馬氏・大村氏もあまりパッとしなかった。
そして江戸時代になると、長崎は佐賀鍋島氏や福岡黒田氏などの監視下に置かれていた。長崎というのは、そういうクニだったようである。
そして、あの「島原の乱」は徳川系唐津藩主の将軍家へのゴマスリのための農民イジメに対する爆発だった。
現代では名物となっている、薩摩芋の麺六兵衛》も、実はそうした圧政や飢饉の下から生まれた悲劇の麺であることは、「第29話 哀しみの六兵衛」でも述べたけれど、それは美味しいとか、口福感とかとはまったくちがった異次元の食べ物なのである。

ところで、《六兵衛》などを紹介すると、よく「小麦や蕎麦や粟、稗ばかりでなく、薩摩芋でも麺が作られていた」とか、あるいは「蕎麦は麺ばかりでなく、蕎麦掻や蕎麦団子にして食べられていた」なんていう具合に、全てを同じ卓に載せて論じたりすることがあるが、その安易さは要注意である。無論、これは麺ばかりでなく、食べ物全般にいえることであるが、郷土食、しかも身分制度の厳しかった昔の食べ物を見るとき、それは・・・
・町の人の食べ物か、村の人の食べ物か、
・裕福な者たちの食べ物か、極貧の者の食べ物か、
・ハレの食べ物か、ケの食べ物か、
などの一種の差別観をもって見る必要がある。

「ハレとケ」の問題は論が難しく、複雑になるのでここではちょっとおくとして、「町の人・裕福な人」と「村の人・極貧の人」ということだけでも想像してみよう。そうすれば各々の食事姿が浮かんでくるだろう。そう。前者は美味しい「食べ物」といえるが、後者はそんなレベルにはほどとおい「餌」にちかかっただろうことが十分考えられる。
前者は美味しくなる工夫(技術・調味料・デザイン性など)が加えられているから、食べ物史の俎板にのせるべきだ。だが、後者は極めて原始的にただ煮炊きしたにすぎない食べ物(餌)ではないのか。
したがって、食の文化論として、われわれは前者を中心にして論じ、後者は民俗学の一部として扱った方がよい。
コツをいえば、物事を見るときは、決して主流と支流を同じ論卓に並べてはならないということである。
哀しみの《六兵衛》を口にしながら、そんなことを考えてみたが、いかがだろう。

参考:第29話 お国そば物語 ~ 哀しみの六兵衛 ~
「対馬から蕎麦の原初を想う」↓
http://www.edosobalier-kyokai.jp/pdf/tsusima_hoshi.pdf

〔エッセイスト ほしひかる ☆ 文・絵〕