第398話「蕎麦切は甲州天目山より始まる」

      2017/01/26  

天目山栖雲寺に蕎麦奉納を実施した世話人さんたちの反省と次回打合わせの会が、鎌倉「栞庵」(江戸ソバリエ認定の店)で行われた。
その折に、「蕎麦切は甲州天目山より始まる」ということをもっと世間に知ってもらおうよ、ということになった。
そこで、あらためて訴求点を整理してみた。
そのキーワードは、1)天目山、2)天目茶碗、3)マニ像である。

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その前に、この言葉は尾張藩士の天野信景の著『塩尻』の中に書かれていることから、「甲州、蕎麦切発祥の地」説になった。
天野信景という人物は、和・漢・博物の広い知識をもっていた。ただ、文章から判断すれば、蕎麦については詳しくないような印象をうけるが、ほとんどの人がそのていどであろう。

さて、天目山栖雲寺は、業海本浄(~1352)という僧によって創建された禅寺である。
彼は、杭州天目山(浙江省杭州)の中峰明本に師事したが、大陸へ渡った時期は元朝第4~6代皇帝(1311~1328)のころとされている。日本では鎌倉北条執権11代目~14代目あたりであろう。
業海が赴いた浙江省は、前に入宋した栄西道元円爾らも訪れた聖地である。
彼らが持ち帰ったのは仏法のみならず、その背景である南宋文化があった。そこから多くの花が開いたが、食分野においても然りであった。、
そのころの南宋の首都・杭州には高級料理店が多数存在していた。修行のためとはいえ入宋した彼らもその状況をよく観ていただろう。
栄西の『喫茶養生記』、道元の『典座教訓』、円爾の「水磨の図」などもそうした影響下から生まれたのである。
業海の帰国年ははっきりしている。北条執権15代のころの1326年である。そして足利尊氏の代の1348年に天目山栖雲寺を創建した。
彼が開山した甲州天目山はもともと木賊山といわれていた。それを浙江省杭州市の天目山で学んだ入元僧業海本浄が、杭州天目山と似ているということからここ甲州に天目山栖雲寺を創建した。
帰国後22年も経ってからの創建は、鎌倉幕府滅亡から室町幕府樹立までの混乱期間にあったためと思われる。
1326年 業海、帰国
1333年 鎌倉幕府滅亡
1338年 足利幕府樹立
1348年 業海、栖雲寺創建

その栖雲寺には、天目茶碗と「マニ像」の寺宝が保管されているが、これらについての由来文書は当寺にはないという。
天目茶碗は、国宝「曜変天目茶碗」をはじめ抹茶茶碗として有名であるが、鎌倉時代に浙江省の天目山で修行した僧たちが帰国の際に、天目山窯の茶碗を持ち帰ったとろからわが国で人気となった。
また、「マニ像」とは、マニ教の像である。今は消滅した宗教だから詳しいことは知られていないが、3世紀ごろイランのマニという人物が創始した。一時は東西で勢いをもち、6世紀には中国大陸へ及んで一時は浙江省・福建省などで広まったという。
伝播した理由は、各地の宗教であるキリスト教、ゾロアスター教、仏教、道教などを巧みに混合して伸びていったということらしい。
だから、「マニ像」は胸元に十字架を掛けている。
NYのメトロポレタン美術館の調査では、元時代(13~14世紀)に描かれたものに間違いないというが、業海は1326年まで彼の地にいた。

かように、天目茶碗やマニ像がそろって栖雲寺に在るということは、業海上人の大陸土産であったと考えるべきであろう。
そして、この2件を状況証拠とした場合、蕎麦切も、この業海が直接大陸からもたらしたと推定する次第である!

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《参考》
写真:甲州天目山近くで見かけた「裏白=雄山火口」(蕎麦切のつなぎとして使う所もある。)

・栄西
1168年南宋へ渡り、天台山(浙江省)、阿育王山(浙江省)、蘆山(江西省)で修行、
1187年再び南宋へ入り、天台山で修行、
1191年帰国、
1211年『喫茶養生記』を著す。

・道元
1232年南宋へ渡り、天童山(浙江省寧波市)で修行、
1227年帰国、
1237年頃『典座教訓』を撰述。

・円爾
1235年南宋へ渡り、徑山(浙江省杭州市)で修行、
1241年帰国、「水磨の図」を持帰り、初めて日本に挽臼を持込んだ人といわれている。

・南宋の「高級料理店」については下記のほしエッセイ「外食店の祖 誕生」にある。
http://www.edosobalier-kyokai.jp/tk/thinktank.html#list3

・ふりがな
天野信景(アマノサダカゲ)
中峰明本(チュウホウミョウホン)

〔文・写真 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる