第418話 「アフター・ダーク」

     

~ 「越後十日町小嶋屋 訪問」余談 ~

旅をするときはできるだけ電車に乗ることにしている。理由は、昼刻、夕刻に乗れば、好きな駅弁が食べられるからということと、もうひとつは本が読めるからである。だからといって、私が読書家というわけではない。ただ子供のころから集中力がないため部屋で長時間座って本を読むのが苦手なだけで、車中とか機中のようにどうしても座ってなければならない所で読むと頁が進むというわけである。

今日は、新潟県十日町市の「越後十日町小嶋屋」の小林社長さんを訪ねることになっている。
出かける前に、いつものように自宅の本棚から適当な文庫本を取り出し、新幹線に乗った。たまたま選んだ本は村上春樹の『アフターダーク』だった。
ハリー・ローレンという魅惑の歌手が歌う「アフター・ダーク」と同じ題名だったから、ついつい買っていたが、読みかけのまま本棚に眠っていた。
「スモーキー」といわれるほど微かに声が裏返るハリーのこの歌は、小説の主人公・マリの姉である、眠り姫のエリのための「大人の子守唄」のような曲だ。


そのエリは、小説の中でほとんど眠っている。そして終章で小さな唇が微かに動くという、たったそれだけでエリの存在感を表現しているから、何という小説かと舌を巻いてしまう。
ただし、小説『アフターダーク』の中で出てくる曲は、カーティス・フラーのトロンボーンが小気味いい『ファイブスポット・アフターダーク』である。聞けば、皆様にも覚えがあると思う。

さて、新幹線はアッという間に越後湯沢駅に着いた。そこから、ローカル線のほくほく線に乗り換え、十日町へ向かった。
窓からは、連なる残雪の山々、広がる水田、続く線路が見える。胸がどきどきするような美しい景色だった。
車内の乗客を見るともなく観ていると、一人の、いかにもそれらしいリュックを背負い、いかにもそれらしい服装に、それらしいシューズを履いた旅人が、終始スマホを触っていた。「風景も見ない旅人とは、不思議な人だ」と思っていたら、その人も十日町駅で下車し、スマホを見続けながらホームを歩いて、目的地までのルートを検索したのだろうか、スマホにガイドされるようにして、迷いもなく歩き去った。
思えば彼は、バッグの中に入っている村上春樹の世界とは間逆の人のようだ。
村上の小説には、歩き続ける主人公がよく出てくる。まるで、迷いながらも自分自身の足で歩いた範囲が確かな世界だといわんばかりである。

ところで、ここ十日町市は半世紀ほど昔、車で通ったことがある街だった。市内の中心、雁木が続く本町4丁目通りまで来てみて、若いころに見た覚えのある光景が浮かんできた。
その本町通りに面した所に「越後十日町小嶋屋」はあった。
実は、今日社長とお会いするのは、『蕎麦春秋』誌の取材のためだった。
さっそく小林社長にお話をうかがった。その内容やお店の小史については、近々発売予定の『蕎麦春秋』vol.42をご覧いただきたいとろであるが、社長の話は一貫して、「魚沼のへぎそば》」を「新潟の蕎麦」へしたいとのあつい思いにあふれていた。

ここで申上げておくが、小林均社長は江戸ソバリエの仲間である。
ソバリエの仲間には、小林社長をはじめ、素晴らしい手学力・舌学力・脳学力・蕎麦力をおもちの方がたくさんいらっしゃる。それは村上春樹が描く以上の確かな世界だと思う。

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余談の余談
小林社長は、「越後信濃川流域から出土した縄文時代の火焔型土器のデザインが、かつての新潟国体で炬火台に採用された。ぜひ今度の東京オリンピックの聖火台にも活かしてほしい」とおっしゃった。
そこで挿絵代わりに、以前に作成した小生の縄文風土器を掲載してみたが、国宝火焔型土器とは、似ても似つかぬ駄作であることはいうまでもない。

〔文・縄文風土器 制作 ☆ エッセイスト ほしひかる〕