第505話 マンハッタン・ホテル、コーヒー・タイム

      2018/09/11  

☆マンハッタン・ホテル、コーヒー・タイム
「思いは通じる」という。
今日は、そんな言葉を思い出させてくれるようなことがあった。
千葉県そば推進協議会の星崎さんから講演を依頼された。会場は幕張だった。
会が何とか終わったところで、参加されていた小林さんが「お茶でも飲みに行きましょうか」と誘ってくれた。
車を走らせ、目的地に着いて駐車場に車を預けてから、小林さんは真向かいにそびえるホテルに案内してくれた。見上げると[HOTEL THE Manhattan]という名前が見えた。私は「ほ~!」と思った。
というのは、前に私は『コーヒー・ブルース』という拙い小説を書いたことがあった。そこに[Manhattan]というホテルを登場させていたのである。そのせいかホテルに入ろうとするとき、初めて訪れたような気がしなかった。
小説は、初めは起業小説のつもりで書き始めた。もちろんちょっぴりのラブストーリーで味付するつもりではいた。仲間たちは私の下手な小説をお義理で読んでくれた。そのうちの男性は起業の方に関心をもってくれたが、女性の方はラブストーリーの方に興味を示し、メールで感想を寄せてくれる人がいたりした。私は嬉しかったので、それに応えているうちに物語は恋愛小説へと変貌してしまった。私はそれならそれでもいいと思いながら、じゃラストは小説らしく悲劇で終わらせようかと考えていた。けれどもハッピーエンドがいいという声が届いて、ついにそうしてしまった。それでも、読んでくれる人との対話によって書き上げるという面白い体験をしたことに私は満足であった。
そんな小説の主人公二人が、深く結ばれたホテルがニューヨークのマンハッタン・ホテルであった。というよりか、ニューヨークらしいホテル名はないものかと、ない知恵を絞って決めた名前が「マンハッタン・ホテル」だった。もちろん、決める前にニューヨークにこの名前のホテルが実在しないかと私なりに調べてみて、どうやらなさそうだということで、それにした。
ところが、小説を書き終えて暫くしたころ、同名のホテルが幕張にあることをぐうぜん耳にした。私は内心「へえ、ニューヨークではなくて、幕張に」と驚いたものだったが、それから数年後に再び目の前に[HOTEL THE Manhattan]の名前が現れようとは思いもしなかった。
でも、私の思いが通じたような気がして、いま「ほ~!」と呟いたのであった。
小林さんはエレベーターに私を乗せて、21階のボタンを押した。そして「このホテルの喫茶室が気に入っているんですよ」と言う。
入ると、若き日の〝映画スター〟がずらりと並んで迎えてくれた。オードリー・ヘップバーン、B・B(ブリジッド・バルドー)、C・C(クラウディア・カルディナーレ)、イブ・モンタン、クリント・イーストウッド、部屋の奥まで回ればもっといただろう。もちろん昔の白黒写真だが、みんなきれいだし、輝いていた。BGMにジャズが流れていた。私は「小説で創造した通りの雰囲気をもつホテルだ」と喜ばしく思った。
小林さんは自分の好きな特別な席に座りたかったらしいが、先客がいたのか、それとも私に外の景色を見せたかったのか、大きな窓のある方のソファーに誘導してくれた。
気象情報によると台風が接近しているらしい。そのためかホテルから観る空と海はド~ンと重かった。「今日はあまり景色がよくないナ」と彼が言うので、私は「そんなことはないよ」と返した。実際、ターナーの『海景』を思わせるような景色が窓ガラスの向こうから迫まっていて、面白いと思った。
小説では、窓の外に流れるハドソン河の上に銀色の満月が浮いているような場面も書いた。女性の主人公が受胎を予感するという大事なシーンであった。文章の途中には「Moon River♪」という曲を挿入したりした。
小林さんと私はコーヒーを注文した。まもなくしてホテルらしいコーヒーとミルクが運ばれてきた。〝ホテルらしい〟というのは、深煎りのコーヒーに、乳脂肪分の濃いミルクという意味だ。よく、コーヒー・チェーンで出る焦げた豆を深煎りだと勘違いしている人がいるが、それは堅い蕎麦を腰のある蕎麦と間違っているようなものだ。それにどこでも出るプチッと開ける擬きミルクは出汁のない蕎麦つゆのようで味気ない。そうではなくて、先ず深煎りのコーヒーに乳脂肪分の濃いミルクをスタートラインに並ばせてから、次に美味しいかどうかを競うべきだろうと私は思う。すべては基本からスタートだ。

☆千葉のソバリエの皆さん

ところで、千葉には素晴らしい人たちがたくさんいる。それが今日の感想だった。
籾山さんのように食べ歩き1000軒を達成した人がいる。蕎麦文化の基本は蕎麦屋の蕎麦を食べることだ。これが貧すれば蕎麦文化は廃れる。
星崎さんのよう将門神社への蕎麦奉納を通して蕎麦への感謝の念を忘れない人もいる。食への感謝は道元禅師以来の和食の基本だ。
千葉ソバリエの会を主宰している小林さんや金子さんたちのように、蕎麦の勉強を怠らない人たちもいる。人間の基本は学び続けることにあると思う。
また多くの人が千葉在来を守っている。食の基本はやはり地元の食材だ。
そもそもが千葉という所は濃口醤油を開発し、江戸蕎麦ひいては江戸の基本味を創った大事な地域だ。それが千葉の基本だと、千葉にやって来て、皆さん方にお会いして認識を新たにしたのだった。

〔文・挿絵 ☆ エッセイスト ほしひかる