第617話 お蕎麦のファッション

     

 

~ 寺方蕎麦の席

 18歳で九州から上京した私が感じたのは「東京って食器がお粗末だな」ということだった。そんな思いから、「江戸の食べ物は食器を使わない」ということに気づいた。握り寿司はカウンターに置いて食べるし、あつても竹の葉か葉蘭だ。天ぷらにしても同じようなものだ。鰻重や江戸蕎麦にしても、丼か笊さえあれば済む。
あるとき、料理研究家の林幸子先生が「お蕎麦屋さんって器がないのよねえ」と嘆いておられたので、私の説を申上げると「そっか、なるほどね」とおっしゃったが、彼女は関西のご出身だから、分かったもらえたところがあると思う。しかし東京の方にそれを申上げても「そうかな?」とほとんど気にもかけられない。もちろんこれがすべてではないが、語弊が生じるかもしれないので、一応そういうところがないでもないということにしておきたい。
ところで、先日ある和食会があった。そのときのお吸い物椀は朝顔手だった。すこぶる持ちやすくて飲みやすかった。
蕎麦猪口も一時、朝顔手があったらしいいが、江戸では直線型しか受けなかった。お雑煮の餅が「西は雅な丸餅、江戸は武士らしく真っ直ぐの角餅」というところと同じ由来なのだろうか。
会には、たまたまテーブル・コーディネーターの知人が参加されていた。
なので、そんな話をすると、「今週の金土日にテーブル・ウェア・フェスティバルがありますよ」と言って招待券をくれた。彼女は大阪の人だから、明日帰るから行けないらしい。
会場は後楽園ドーム。すぐ近くなので行ってみた。人でいっぱい。客は女性が8割、年齢層はまちまち。洋物も和物もあり、現代的な作品も多かった。蕎麦猪口、あるいは蕎麦猪口として使えそうな物だけ写真に撮った。
しかしながら、魯山人は「器は料理の衣装」といったが、食器だけが気に入っても、それだけではタメ。全体の調和が大事である。
というところから、テーブルウェア作品も展示してあった。その中には別の知人のテーブルコーディネーターの名前もあった。
作品の中には、《かけ蕎麦》テーブルセツトウェア、《さら蕎麦》テーブルウェアや、うどん、そうめん、パスタのための作品もあった。
いずれも、眼の保養になった。それに豪華すぎるくらい豪華である。それを見て、あるご婦人の付き添いで見えたようなある老紳士が「こんなもんで食ってもうまくないだろう」と笑いながら高々とおっしゃった。連れのご婦人は慌てて「変なことを言わないでちょうだい」と言わんばかりに、その男性の袖を引っ張っておられたが、その通り。
ご婦人に代わって申上げると、こういうフェスティバルはファションショウである。とうぜん非日常性を帯びている。
要は、ここから「器は料理の衣装」だとか、「そのまた衣装が全体の調和」だとか、「器を変えれば、あたらしい料理の発想も沸く」とかということを思い知るためのショウである。
また、振り返れば往古に振舞われた《寺方蕎麦の席》とはこのようなものではなかったかと想像するのも一興であろう。

〔文 ☆ 江戸ソバリエ ほしひかる
朝顔手椀、朝顔手蕎麦猪口(ほし蔵)、

有田焼新作蕎麦猪口

蕎麦・うどん・そうめんのテーブルウェア、

和食のテーブルウエア