第620話 庵 号

     

小松庵」でお蕎麦を食べた。
当店は村上春樹の『ノルウェイの森』ゆかりの店らしい。
そういえば、先日ある人から庵号由来のお問い合わせがあった。
庵号由来伝説としての道光庵の話は、ソバリエさんなら知らない人はいないだろう。
江戸時代、浅草称往院の塔頭の一つである道光庵の庵主が蕎麦打ち上手だったため、檀家の人や江戸の人たちの間でたいへん評判となった。だが、そのために称往院の25世昇誉恵風に「本業を忘れるな」と叱責され、禁断の碑が建てられてしまった(1786年)。そのころから蕎麦打ち上手のその庵主にあやかって、「庵」号の蕎麦屋が増えていったという話だ。
現に、1787年ごろには「東向庵」(鎌倉河岸)、「雪窓庵」(茅場町)、「東翁庵」(本所)、「紫紅庵」(目黒)など庵の付いた蕎麦屋が現れた。
ところが、庵号の文献上の初見は1750年ごろの「寂称庵」(大坂道頓堀)というから、実際は「寂称庵」「道光庵」のどちらが早いかは不明である。それにしても、この「寂称庵」というのは何だろうか。その名にどこかのお寺の塔頭に由来するような匂いを感じるのは、現代の瀬戸内寂聴さんの「寂庵」があるせいだろうか。
とにかく大坂のそんな話を聞くと、庵号誕生は道光庵由来とはかぎらないということになる。ただし庵号が広まったのは道光庵の噂に起因するものだろう。
こうした知識は、江戸蕎麦を啜っている者ならたやすく耳に入る情報である。しかし江戸ソバリエだったら、この程度で甘んじてはならない。わけても江戸ソバリエ寺方蕎麦研究会の面々なら、寺方蕎麦の道光「庵」が消えて、蕎麦屋の「庵」が登場するという史実の背景を観るだろう。すなわち、寺方蕎麦の時代が終わり、町方蕎麦が本格的になってきた象徴的な出来事だと理解するだろう。
そもそもが、寺方の料理の一部であった蕎麦だけが独立して商われるようになったのが蕎麦屋の蕎麦である。時はまさに江戸中期ごろ、寺方蕎麦の時代から町方蕎麦(蕎麦屋の蕎麦)の時代への大きく変化しようしている時期であった。そうした時代の流れの中で、称往院の25世昇誉恵風は禁断の碑を建てたのである。

追記
われわれ人間は、常に歴史法廷の被告人であることを忘れてはならない」という言葉がある。物事を決断するときは大事な判断基準である。
 この視点から観れば、称往院25世昇誉恵風の決断は、時代に即していたと思わざるをえない。

〔文 ☆ 江戸ソバリエ寺方蕎麦研究会 ほしひかる