第624話 君が そば

     

過ぐる日、天皇の料理番である谷部金次郎先生と「門前」で食事をしたとき、「昭和天皇はお蕎麦が大好きで「毎月30日は晦日蕎麦をお作りして召し上がって頂いた」という話を聞いた。
そんなことから、天皇が召し上がられた蕎麦屋さんを取材するときは「君がそば」を意識して伺うことにしている。

☆「うるしや」の《おろし蕎麦》
越前の「うるしや」は若いころ行ったことがあったが、その後閉店して、昨年神楽坂の「九頭龍蕎麦」が再開した。
なのでね先日、原崎社長にお会いしたときも、《君がそば》の「うるしや」のことも意識してうかがった。
「うるしや」の創業は文政(1818~30)年間、元は漆問屋だった。それが蕎麦屋となり、六代目梅田惣七のときに天皇の料理番秋山徳三の指示によりその夕餉に「うるしや」の蕎麦が組み込まれるという栄に浴した。天皇は後々までも「あの越前の蕎麦・・・」と仰っていたという。越前のお蕎麦がお気に召されていたようである。ただ店は七代目の喜照の病死で途絶え、現在の原崎社長が後を引き継いだわけである。
元来越前は京文化が優先していたが、先々代も先代も粋な人物であったらしく、蕎麦については粋な江戸風を取り入れたという。
原崎社長が言う、福井という所は、地の利から関西の雅文化も、また徳川親藩であったところから江戸の粋文化も受け入れらたというのが下地にあるのだろう。
しかし越前の京風とか江戸風とかいうのは近世のことである。それ以前の中世の越前に、食の思想家といわれる道元が建てた永平寺がある。和食に関係する者なら一度は訪ねるべき所である。私も一昨年に訪れる機会があったので、厨房を見せてもらい、京風も江戸風も、道元の示す「淡」にあると思いながら、精進料理を頂いたものだった。
(『蕎麦春秋』VOL.53「ほしひかる 暖簾めぐり」より抜粋)

☆「竹老園」のお蕎麦
電車の窓から北の景色を観ながら、手には釧路の作家原田康子の『挽歌』を持っていた。北海道は何度も巡っているから、この小説に出てくる地名はよくわかる。
釧路駅に着いた。「東家」まではタクシーに乗った。
「東家」の創業者伊藤文平は福井から小樽への移住者だったという。時は明治維新直後のこと、小樽・函館で蕎麦店を開いたが火事などの災難が続いた。それから縁あって釧路で再開した。それが現在の東家の起こりである。当時のそば屋は、酒と料理と蕎麦に、酌女がいるのが普通だったが、二代目竹次郎は蕎麦専門店として開業した。
それから戦後の昭和25年に三代目徳治は《茶そば》と《蘭切り》、さらに針生姜を入れて甘酢で食べる《そば寿司》も創作した。
店主の話によると、やはり蕎麦は江戸への憧れがあった。ということから「神田藪」の緑色の蕎麦がヒントになったという。
しばらくして、昭和天皇皇后両陛下の北海道巡幸が決まり、昭和29年8月16日の夕食に徳治の蕎麦も加えられることになった。
御献立は、六園荘の調理人加賀谷熊吉氏の十二品の郷土料理と、東家三代目の伊藤徳治の蘭切りに大根卸しと海苔の薬味だった。昭和天皇はお蕎麦をお代わりされた。徳治は感激のため涙が止まらなかったという。
それから昭和59年には、当時の皇太子殿下美智子妃殿下が第39回冬季国体ご観覧のため釧路へお越しになり、湿原のレストランにてご昼食をとられたが、そのときは四代目の正司がご接待をお引受することになった。両殿下は、蘭切り、茶蕎麦、蕎麦寿司、柏抜きを召し上がられ、妃殿下から「美味しくいただきました」とのお言葉を頂いたという。
(『蕎麦春秋』VOL.33「ほしひかる 暖簾めぐり」より抜粋)

☆「君がそば」
冷泉家十四代為久(1686~1741)が霊元上皇から蕎麦切を頂戴したときに献じた「寄蕎麦切恋御歌」というのがある。
♪呉竹の 節の間もさへ 君かそば きり隔つとも 跡社はなれめ
江戸ソバリエ協会はこの歌をもとに川島さんという琵琶奏者に曲を作ってもらった(平成21年)ので、当協会としても大事な歌である。
それで、この文の題名を「君が そば」とした。

〔文 ☆ 江戸ソバリエ協会 理事長 ほしひかる〕