<コンビニ創業戦記・附伝>「鈴木貞夫・言行録」第2回

      2016/07/22  

中学生時代】

――1946年(昭和21年)4月~1949年(昭和24年)3月――(12~15歳 

「川内市立平佐西国民学校」

私は川内に引き揚げてから直ぐに、地元の「平佐西国民学校」6年生に編入学した。

終戦の年、1945年(昭和20年)11月ごろのことである。

学校は、父の実家のすぐ隣にあり、家の目の前に古い木造2階建ての校舎が見えた。

休み時間には、いつも児童たちがドタバタと走り回る音や、騒ぎまわる声が、にぎやかに聞こえていた。

校庭の一角には、「平佐城址」の石碑と、「有島生馬顕彰」の記念碑が建っていた。

「平佐城」は、豊臣秀吉が九州征伐した際に、島津軍の最前線基地になったという由緒のある城であり、その城跡に学校は建てられていたのである。私が居たころは、城の石垣がまだはっきりと残っていたが、もう今はどうであろうか。

太閤秀吉の本陣であり、島津義久が降伏した場所として知られる泰平寺は、平佐城の裏手にあたる城山から遠望できる距離にあったと思う。城山は、今はもうすっかり平地に開発されて、住宅地になっており、その頃の面影をしのぶ由もない。

(平佐城址の石碑)

「有島生馬碑」は、作家・有島武朗の実弟、有名な洋画家であり、平佐西小出身の卒業生として顕彰するものであった。

平佐西国民学校には、僅か四ヶ月ほどの在学であったが、同級生には前園君、弟子丸君、財部君、塚田君、玉置さん、前田さん、大河内さんなどがいた。その後、彼らとは高校時代でも一緒になった。

「鹿児島県立川内中学校ーー>鹿児島県立川内高等学校併設中学」

私は翌年、旧制鹿児島県立川内中学校の最後となる入学試験に合格し、昭和21年4月、川中第70期生として入学することができた。

敗戦直後の日本は、軍閥解体や財閥解体などに加えて、憲法改正や、社会全般の民主化へ向けての改革が急速に推進されていたが、教育制度の改革もその一端であったろう。

昭和22年、学制改革が実施される。

国民学校は小学校となり、新たに義務教育の新制中学校(3学年制)が設けられ、旧制中学校(5学年制)は、新制高等学校(3学年制)へと、旧制高校、旧制大学は、新制大学へと編成替えされることとなる。

この年、旧制川内中学校は、旧制川内高等女学校と合併して、新たに男女共学の新制川内高等学校として新発足する。

私たちは、旧制川内中学校最後の入学生であり、新制川内高等学校併設中学2年生となったのである。

私のこの中学生時代には、あまり心踊るような楽しい思い出はない。

入学仕立てのころは、旧制中学校の本校舎そのものが戦災で焼け落ちたままであった。

焼け跡の片付け作業を、何日も行った覚えがある。

新入生の私たちの教室も、近くの新田神社の外苑に焼け残った寄宿舎の6畳ほどの畳を取り外した部屋で、机も無く、教科書は戦時中のものを墨で塗りつぶしたものであった。そのうちにバラツク校舎が応急措置で建てられたが、ようやく雨風を防ぐ程度のものであったと思う。

どうやら校舎らしくなったのは、高校1年生になってからであった。

旧制中学の上級生には、予科練帰りなどの軍隊経験者などもいて、肩で風を切って歩きまわり、中学1~2年生から見るとずっと大人びて見えた。

厳しい目つきには殺氣を感じたものだ。

衣服や履物も手に入らない時代であった。

父の軍服のお古を母に仕立て直してもらい、まるで少年兵のような姿で、すり減った下駄を履いて通学した。服装や格好に気を使う余裕などは、全くなかった。

当時東京には、戦災孤児たちが浮浪児として、上野公園や銀座などに多数たむろしていたと云われるが、私の姿も一見すればあまり変わりはなかったかもしれない。

同級生の中にも、満州や朝鮮、台湾からの引き揚げ者が多くいた。

入来院君、岩本君、川野君、田代君、豊島君、野毛君、平地君などの諸君がいたが、みんな似たりよったりの境遇だったのかもしれない。

引き揚げ者同士で、どこか氣の合うところがあったと思う。

通学途中の街は、まだほとんど焼け跡の瓦礫のままであり、そこここに、急ごしらえのバラックが漸く建ち始めていた。

だいたい、まとまな商店など、みな焼けてしまって、残っていなかったのだ。

その頃は、川内でも闇市が人を集めていたと思う。

だが最大の苦労は、何といっても、食糧難であった。

育ち盛りの10代前半のこの頃は、いつも腹を空かせていた氣がする。

確かには覚えていないが、コメの配給が、月に7日分とか、アメリカ占領軍の援助による「小麦かす」(フスマ)と云つたが、恐らく家畜用の飼料であった)の配給があったりした。

それでも絶対量は常に不足していたから、家の庭の隅で作る、唐イモやカボチャの蔓や葉まで、「すいとん」や「団子汁」にして食べていた。

母の実家は、川内郊外の樋脇町で、農家であった。

正月やお盆になると、母の実家を家族で訪ねるのが、何よりの楽しみであった。

そこで御馳走になる白米のご飯(銀シャリ)は、当時の最高の御馳走だったからである。

その頃は末の弟、3男の康洋が生まれていたから、5人家族になっていたと思う。

いつも、お盆と正月が来るのを心待ちにしていたものである。、

母の兄夫婦と子供たち、私にとつては伯父、叔母、いとこたちは、みんな心優しい人たちであった。

いつも温かく迎え入れてくれたものである。今でも、心から感謝している。

樋脇町までは、約10キロほどの道のりであっただろうか。

月に1~2度、途中に在る永利の急な坂道、当時はまだ舗装されていなかったが、母と二人で荷車をゴロゴロと曳いて、サツマイモ一俵分を貰いに通ったのも、このころである。

時に、雨に降られたり、粉雪の舞う厳しい目に会ったことも、今は懐かしく思い出す。

お陰様で、何とか、栄養失調に陥ることもなく、高校生活を迎える事が出来たといえよう。

【高校生時代】

――1949年(昭和24年)4月~1952年(昭和27年)3月ーー(15~18歳)

「鹿児島県立川内高等学校」

私は、川内高等学校四期生である。

四期生は、旧制中学校・旧制高等女学の合併による男女共学と、新たに新制中学校から入学してきた仲間を加えて10クラスもあり、1学年で600人近い大人数であった。

私たち四期生は、困難な大転換の時代を生き抜いてきただけに、多人数にも関わらず比較的に結束力が固かったと思う。

加えて熱心な幹事たちのお陰で、これまでに何度も同期会を開いて来た。

さらに欣快に堪えないのは、昨年、特に傘寿を祝う全国大会を故郷川内で開催し、極めて盛会であったことであろう。

(川内高校卒業30周年記念同期会)

(横浜全国集会)

(傘寿記念同期会)

私たちの高校生時代は、日本が敗戦後の混乱期の中で、独立回復と復興への足がかりを何とか掴もうとして、悪戦苦闘していた時期であった。

そして、それはまた朝鮮戦争の時代とも、ほぼ重なっており、その衝撃は非常に大きかった氣がする。

朝鮮戦争は、北朝鮮の侵攻で突然に始まり、アメリカを主力とする国連軍と、中国共産党軍が、相互に参戦して本格的な大戦争となった。

米ソ対立を中心とする冷戦状態にあった当時の世界は、自由主義と共産主義のイデオロギー対立による世界戦争一触即発の恐怖に戦いたと思う。

朝鮮戦争は、1950年(昭和25年)6月に始まり、1953年(昭和28年)7月に休戦協定が結ばれ終結した。

しかし現在に至るまで、未だに平和条約は結ばれてはいない。まだ休戦中に過ぎないのである。

この4年間、戦況は一進一退し、朝鮮半島のほとんどすべての地域が、過酷な戦場と化した。

この戦争の惨禍で、私の幼い記憶の中にあった、京城や、仁川や、釜山などの、まだ鮮やかな美しくも懐かしい風景や街並みは、恐らくは灰塵に帰し、荒廃してしまったに違いない。現在は既に、全く新しい街に生まれ変わっていることは勿論であろうが、思えば痛惜極まりない事であった。

日本も、この戦争の影響をまともに受けることになった。平和憲法制定後間もなくであるにも関わらず、米軍占領下のなかで、急遽、治安維持を名目とする警察予備隊が、旧軍人などなども参加して、設立される。やがて後に保安隊と名称を変え、現在の自衛隊へと変身していくことになる。

防衛大学の前身となる幹部学校が設立され、学生募集が始まリ、同期生の中から入学する者も現れるなど、戦時中に似た、きな臭さが増していく世相でもあった。

同時に、日本はアメリカ軍の兵站基地となり、兵器弾薬の補給基地の役割を担い、一種の軍需景気が起こっていく。

有る意味でこれが、戦後経済復興を加速する足がかりとなったことも否定できないであろう。

高校の校舎が新築され、街並みや表通りが徐々に整備されていく。

メイン通りの川内川に架かる大平橋が、新しく拡張して架けかえられ面目を一新するなど、表向き、戦災の傷跡が少しずつ消えていった。

街中でも、映画館が再建され、天然色のアメリカ映画や西部劇が見られるようになっていく。

いつしか、さしもの食糧難も、次第に最悪の事態を抜け出していった。

川内名物の大綱引きや、花火大会も復活していた。

高校生時代の3年間は戦後の混乱期でもあり、好悪さまざまな思いがあるのだが、ここでは特に、私にとって80歳の今日まで、波乱の人生を生き抜く基礎につながったと思う二つのことがらを挙げておこう。

「野球部活動」

一つは、野球部員として、1年生から3年生の夏まで部活動に熱中したことである。

先ずは野球道具、グロ―ブ、バットや、スパイク、ユフォームなどを揃えるのには、親が一方ならぬ苦労をしたことと思う。

練習ボールの数も十分ではなく、練習後に部員が自宅へ持ち帰り、縫直して翌日持参するのが常であった。

放課後の練習もそれなりに大変であったが、休日練習もたびたび行われたように記憶している。

特に、毎年、夏の大会前に行われた食糧持参の合宿訓練は、きびしいものであった。

その訓練メニューの中に、新田神社の階段登りがあったことを今でも忘れない。

川内平野の小高い丘の上に鎮座する新田神社の表参道及び裏参道には、それぞれ五〇〇段はあったろうか、急こう配の立派な石造りの階段があった。

これを合宿期間中の毎朝、起き抜けに早さを競って、登り降りするのである。

その都度、たちまち息はきれ、足は上がらなくなるのだが、最後まで登り切る事を繰り返した。

日を重ねるうちに、徐々に速く登れるようになっていく。それだけ基礎的体力が付いたのである。

いろいろ苦労もあったが、いまとなって見れば、全てが身に着いた財産であったろう。

私には、特別に野球選手としての才能があったとは思えないが、体力の基礎的土台は、この時期に出来たような氣がしてならない。

2年生の時、夏の甲子園大会県予選で、初めて準決勝戦まで進出した。準決勝戦で、その年の優勝校・鹿児島商業に17対3で大敗したが、悔いはなかった。

まだテレビがない頃で、みんなラジオ放送にかじりついていた時代である。

その時のメンバーは、三年生の鎌田さん、高山さん、平山さん、同期生の馬場君、富山君、原君、1年生の今井君、榎田君、山本君などであったか。

野球部長は緒方先生、監督は神川監督であった。大変お世話になった。

当時は確か、鹿児島、宮崎、熊本の3県の優勝チームによる南九州大会で、甲子園出場が決まる仕組みであったと思う。

次の写真は、雑誌「ビッグマン」昭和61年12月号に掲載された球友・原廣輝君との高校野球部時代の回顧記事である。

「受験勉強」

二つは、3年生の夏から、大学受験勉強に打ち込んだことである。

3年生夏の高校野球鹿児島県大会は、確か2回戦で敗退したと思うが、その直後の8月ごろから、私は、朝一番に夏休み中の学校へ通い、誰もいない教室の1室で、受験勉強に取り組みはじめた。夏休みが終わり、学期が始まっても、日曜・祭日には学校へ必ず行ったものだ。

同じように休日に学校へ来て、それぞれ自分の居場所を決めて、勉強している者は何名かいたようである。

中でも同じクラスの茶屋道君とは、親しく受験情報の交換などをした覚えがある。

なに分、自宅で勉強するよりは、遥かに集中できたからである。

当時父は、復員してから暫く地元の農協の事務長などを勤めた後、その頃新設された社会福祉主事に採用され、鹿児島県の地方公務員となっていた。おそらく薄給であったろうから、進学については、出来れば地元の鹿児島大学にして欲しいようであった。

私は、是非とも東京へ出たいと考えていた。

そのためには短期間に学力を付けて、当時の大学入学試験の一次試験に当たる全国進学適性検査テストで、国公立一流大学への受験資格を得る一定の点数を取ること、及び、学内で定期的に行われていた模擬試験で、常時10番以内に入ること、を目指したものである。

その頃の受験参考書は、旺文社版が主流であった。赤尾好夫、小野圭などの受験指導の先生の名前は今でも覚えている。

英語、数学、国語、社会、物理などの参考書を、毎日少しずつ読み重ねて、同じ参考書を、受験までの半年間に、三回は繰り返して読んだと思う。

その所為かどうか、進学適性検査テストの結果は、当時のⅠ期校の国立旧帝大校の受験資格を得る事が出来た。

また学内模擬試験でも、最初は20位~30位ぐらいだったのが、10位に入るようになり、最後は3位に付けたと記憶している。

比較的に得意だったのは、日本史、国語、英語、解析Ⅰぐらいで、理系はどちらかと云うと苦手であった。これは今でも変わらない。

当時、Ⅰ期校の東大、京大は文系の学部でも、受験科目が少し多かった。

私は、Ⅰ期校受験には、理系の受験科目が少ない経済中心の一橋大学に絞ることとしたのである。

三年当時の坦任・菊池先生には、「一橋には、これまで入学に成功した者はいないから、もう少し目標を下げたらどうか」、と指導を受けた。

私は、「2期校では横浜国大、最後の受け皿として横浜市立大にします」と答えて、了承してもらったのである。

幸いにして一橋大学商学部に無事合格することができ、横浜国大と横浜市立大には、受験申し込みをしてはいたが、受験しないで済んだ。

(以下次号に続く)