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鈴木貞夫のインターネット商人元気塾
鈴木貞夫のインターネット商人元気塾【バックナンバー】

鈴木貞夫

1956年一橋大学卒、同年現池袋パルコ入社、1976年サンチェーン代表取締役社長、


1989年ダイエーコンビニエンスシステムズ代表取締役副社長、1995年ローソン相談役、


1999年ローソン親善大使。現在ソフトブレーン・フィールド(株)特別顧問。


1992年(社)日本フランチャイズチェーン協会常任理事、副会長を歴任 。鹿児島出身

鈴木貞夫氏(すずきさだお)
1934年1月3日生

【4月号】


<コンビニ創業戦記>第23回
・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・


<サンチエ―ン・ダイエ―グル―プ時代(その5)>
――シテイ・コンビニエンスへの挑戦(3)――


  ここで少し、当時のダイエ―・ロ―ソンの状況について触れておきたいと思う。 ダイエ―・ロ―ソンが創業期の数年間で、セブンイレブンに大きく遅れを取った理由は、さまざまに考えられるが、私の独断と偏見に基付いて,敢えて幾つか挙げれば、次のようなことになる。

  第一に、「コンビニ参入の動機」の違いである。

  この話は、中内さんから直接に伺ったことであるが、1974年前後に、当時米国で急成長し注目されていたコンビニエンス・ストアチェ―ン「セブンイレブン」の日本での最初のフランチャイズ展開を、某商社から打診された時に、これを即座に断ったという経緯がある。

  今だから云えることだが、中内さんの判断ミスだったのではないかと思う。

  中内さんはその頃、大型店の出店に最大の関心を持っており、小型店展開よりも大艦巨砲主義に拘って居られたからだと推測する。

  そのため、イト―ヨ―カ堂に話が行くことになり、鈴木敏文氏が強い関心を持ち、「商店の近代化」「大型店と個人商店の共生」の道を探るという大義名分で社内を説得し、決断したという。

  イト―ヨ―カ堂のコンビニ参入が公表されると、イト―ヨ―カ堂への強い対抗意識を燃やしていた中内さんは、負けてはならないと、急遽、米国第二位チェ―ン「ロ―ソン」の導入を決めたのである。

  歴史に「タラレバ」はあり得ないが、もしダイエ―が、「セブンイレブン」参入を最初に決断し、今日と同様な発展を遂げることに成功していたなら、その後のダイエ―グル―プの運命も大きく変っていたことであろう。

  第二に、「セブンイレブン」と「ロ―ソン」のフランチャイズ・システムに基本的な違いがあったことである。

  米国第1位チェ―ン、第2位チェ―ンとは云っても、両社の店舗数は3000店舗対500店舗と規模の差も大きく、チェ―ンシステムの完成度と精蜜度には格段の違いがあったのである。

  その証拠に、とうの昔にアメリカ本土には、ロ―ソン・チェ―ンは存在していない。

  「セブンイレブン」のシステムは、本部による加盟店の対しての、いわゆる「ビジネス・パツケ―ジ提供による経営指導型」方式であるのに対し、「ロ―ソン」のそれは、本質的には、本部による加盟店に対する「商品供給型」方式であった。

  導入初期の段階では、ダイエ―側は、この違いをあまり重大に考えていなかったと思う。

  この二つの方式の違いは、同じような「フランチャイズ・システム」に見えて、似て非なるものであり、チェ―ン経営上から見ても、加盟店運営から見ても、生産性、効率性の上で、天と地ほどの大きな差が生じるものであった。

  「セブンイレブン」方式の典型的な特徴の一つは、加盟店の売上金管理と利益計算方式にある。

  売上金の管理はチェ―ン本部が一括して行なうこととし、加盟店は日々の売上金を原則、翌日に本部に送金する。そして、各店の月次計算は本部が代行して行い、商品仕入れ代金は本部が一括して取引先に支払い、各加盟店への利益金を一定期日に精算払いするのである。

  この方式では、本部と加盟店との間に債権債務問題が、殆ど生じない。

  それは、従来の商店経営の常識や商習慣とは、全く異なるものであったから、その導入に際しては、相当の抵抗があったことだろう。

  しかし、それに妥協することなく貫き通した所に、その後の「セブンイレブン」の大躍進の秘密があったと思う。

  これに対し「ロ―ソン」の方式は、本部が商品調達と供給を行なう「窓口問屋」方式そのものであり、店舗の売上金は各加盟店が日々管理し、商品仕入れ代金は、本部が取引先に対し一括して支払いを代行し、各加盟店からは本部が毎月請求して集金する方式であった。

  ダイエ―・ロ―ソンがチェ―ン展開を始めてから初期の数年間は、この仕組みがスム―スに回転しなかったのである。

  加盟店の商品仕入れ代金の支払いが滞り、本部の立替払い、加盟店への貸付金が増えていく事になった。

  店舗指導員・ス―パ―バイザ―の主な仕事は、お店の経営指導や販売指導というよりも、商品代金の集金係のようになっていく。

  加盟店との再建・債務に関するトラブルも増加し、やがては裁判沙汰にまで発展していった。

  中内さんは、このようなフランチャイズ・システムの詳細については、余りよく理解されていなかったと思う。

  会議の度に、「同じコンビニの商売をしていて、何でセブンのように儲からんのや。もう止めてしまえ!」と怒声を上げられたという。

  第三に、米国に於ける親企業サウスランド社とロ―ソンミルク社の「商品性」と「地域性」の違いも大きかった。

  南部テキサスの製氷会社(氷屋)と北部オレゴンの酪農企業(ミルク屋)の違いである。

  サウスランド社は「氷」という単一商品が中心であったが、その配送・販売拠点に、食品や日用品などを加えて「セブンイレブン」に発展させていったのである。

  ロ―ソンミルク社は、乳製品、ハムなど酪農品・デリカテッセンが主力商品であり、自社製品を前面に出して「パ―ティフ―ズ」をコンセプトにしていたが、その当時の日本のライフスタイルには未だ適していなかったかもしれない。

  店舗イメ―ジも、明るく軽装備・低投資の「セブンイレブン」に対し、重厚で重装備・高投資の「ロ―ソン」という感じであり、店舗数拡大のスピ―ドにも大きな差がつくことになった。



  第四に、日本に於ける親企業ダイエ―とイト―ヨ―カ堂の「社風・企業文化」の違いである。

  これについてもいろいろあるが、「セブンイレブン」がその幹部人事に付いて、イト―ヨ―カ堂との間に独立性を重んじていたように見えたのに対し、「ロ―ソン」はダイエ―との幹部人事交流が、比較的頻繁に行なわれていたように思われた点を一つだけ挙げておこう。

  このような「ダイエ―・ロ―ソン」の経営構造を根本から変えようと努力したのは、ロ―ソンの2代目の経営責任者となった都築富士男専務(当時)であった。

  恐らく数年の準備期間を掛けて、「ロ―ソン」のフランチャイズ・システムを、「商品供給型」から

  「セブンイレブン」と同じような「ビジネスパッケ―ジ提供・経営指導型」へと、構造転換を図ったのである。

  サンチェ―ンとの業務提携が締結されたのは、丁度その目安がついた頃であったと思う。 (以下次号)

  
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