「ミレーの美術館」と言われる山梨県立美術館で、ミレーの「種を播く人」を拝観した。見終わったときは丁度お昼時だった。何を食べようか。そうだ、山梨といえば〔ほうとう〕ではないか。麺喰いとしては避けては通れない。
というわけで、甲府駅近くで〔ほうとう〕を食べさせてくれる店に入った。卓の上のお品書きには〔ほうとう〕の由来が書いてあった。
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〔はく飩〕が禅僧の手により中国から日本にもたらされ、〔ほうとう〕や〔うどん〕になったものである。〔ほうとう〕という形は武田信玄が、野戦食として用い甲州独特のものであり甲州人の誇りの郷土料理である。
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「そら、来た」と思った。甲斐に来れば、あちこちに「風林火山」の幟がはためき、何も彼もが「信玄、信玄」である。
しかし、〔ほうとう〕に関してはどうやら本当のようだ。『華国風味』という書によれば、「はく」は薄い、「たく」は餅、つまりもともとは薄い餅であったという。現在の〔ほうとう〕がやや幅広いのも〔はく飩〕から変化した名残だろうか。
その〔ほうとう〕の作り方を昔、地元の人に訊いてメモをしていた。それを探してあらため見てみた。
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ゴン鉢(捏ね鉢)の底に少量の塩をまぶす。小麦粉と水か、湯を入れ、やや固めによく捏ねてまとめ、濡れ布巾に包んで30分ほど寝かせる。再び耳耳朶ぐらいの柔らかさに捏ねて、伸し板の上で打ち粉をまぶしながら、伸し棒で伸す。切るときは、まず伸し棒に捲いたまま縦に一本庖丁目を入れ、伸し棒を外すと幅4寸くらいの細長いものができる。次にこれを幅3分ほどの麺に切る。具は必ず南瓜を入れ、他に野菜類をたくさん入れて、味噌仕立てのたっぷりした汁でゆっくり煮込む。
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言ってしまえば、〔味噌煮込みうどん〕のようなものだが、甲州人は〔うどん〕ではないと、ガンとして否定する。
話を戻して、「では、禅僧の手により中国から日本にもたらされた〔はく飩〕を、誰が京から甲府へ持って来たのだろうか?」
たぶん、武田信玄の正室となった京の公家のお姫さま、転法輪三条華子だろう。父は転法輪三条公頼という人である。いかにも名門らしい姓を冠した公家であるが、そもそも公家の家柄というのはこうなっているらしい。
五摂家 | 摂政・関白に任じられる家柄。 近衛、九条、二条、一条、鷹司家のこと。 |
七清華 | 「摂家」の次、「大臣家」の上に位する家柄であり、官は太政大臣を先途とし、大臣、大将を兼ねられる。
久我、転法輪三条、西園寺、徳大寺、花山院、大炊御門、今出川家のこと。 |
三大臣家 | 内大臣から太政大臣にのぼれるが、近衛大将は兼ねることができない。正親町、三条、三条西家のこと。 |
という風に、転法輪三条は七清華というたいへんな家柄であった。現に公頼も左大
臣まで上りつめている。
ところが、である。
当時は、天皇は後奈良(在位1536~57)、将軍は第12代足利義晴(在職1521~46)のころであったが、戦つづきで京の都は荒れ放題。天皇の権威も将軍の権力も衰退し、あるのは権謀術数と合従連衡の繰り返しだった。昨日の友も明日は敵、いや都人の頭の中には友という考えはなかった。それはあくまで一時の便宜的な関係であって、基本は抗争しかなかった。こうした乱世は生産性のない公家にとっては苦しかった。だから、公頼が左大臣に昇進しても、生活は相変わらず貧しかった。当時、つまり天文年間(1532~55)の半ばごろ、京都の公家の約四分の一の人たちは周防国の大内氏や駿河国の今川氏などの地方有力者の元へ下向したり、借金のかたに養子縁組を引き受けたりして、命をつないでいた。地方守護から見れば、落ちぶれたりといえど、公家の格式と彼らがもつ〝都の文化〟には、魅力があったのである。公頼もまた、自らは大内氏の庇護を受け、三人の娘たちを新興の実力者たちに売り払っていた、といった方が現実的で分かりやすいだろう。つまり、長女を管領細川晴元の室に、次女華子を武田信玄の正夫人に、三女を本願寺顕如上人の室に、である。しかし、この晴元、信玄、顕如といえば、戦国時代を代表する龍虎であったことにはまちがいない。そう考えると、公頼という人もなかなか食えない人物だったのかもしれない。
ここで転法輪三条家と武田家を結び付けたのは、「烈女」と言われた今川義元の母寿桂尼だったというから、公頼は東海の今川氏まで手をのばしていたのだろう。そして一方の若き信玄は、今川家の戦略上から、京のお姫さまを迎えなければならない立場にあったのである。
その三条華子が、上京区寺町広小路の邸から信玄の元に降嫁した際、辿った甲府への道筋は不明らしい。ただ、中道往還(駿河国・甲斐国を結ぶ街道)の本栖宿に三条夫人が通ったという伝承がのこっているという。それを頼りに想像すれば、1536年7月、華子姫は京の邸から、駿河の今川氏の元を訪ね、寿桂尼に一言ご挨拶を申し上げてから、富士山を眺めつつ本栖湖畔を通って甲府盆地へ入ったのだろう。
さて、ここで地方の実力者たちが羨んだという〝都の文化〟というものを考えてみよう。これまでのわが国の歴史では、明日香、藤原、平城、平安の都を定めてきた。しかし、そこには今でいう〝都市の文化〟というものはそこには見えず、あるのはマツリゴトの中心の地であるということだけであった。
そこで室町幕府第3代将軍足利義満(在職1368~94)は考えた。将軍といえど、武力だけで比べれば地方豪族には勝るとも劣らぬ者たちが少なからず存在する。そういう野蛮な奴らを屈服させるには、都の将軍はどうあるべきか。と、思い悩んだかどうかはわかないが、義満は能・狂言に熱心になり、そうした教養のない者は〝田舎者〟として蔑んでいった。こうして〝都の文化〟というのが、わが国で初めて芽生えたのである。
というわけで、〝都の文化〟は室町時代の京で生まれ、そして江戸・東京で花開いたのである。したがって、古の都である奈良や、平安京時代の京都や前代の鎌倉、また都になりそこねた大坂には、〝都の文化〟は生まれなかった。
そうしてみると、戦国時代というものは、とかく軍事力、資金力だけで論じられることが多いが、地方の領主たちは文化もまた手中にしていたのである。そのなかに都の食文化、つまり〔はく飩〕があっても不思議ではない。そして京の〔はく飩〕は、甲州に土着して〔ほうとう〕と呼ばれるようになったのではないだろうか。
参考:青木正児著『華国風味』(岩波文庫)、石毛直道著『麺の文化史』(講談社学術文庫)、上野晴朗著『信玄の妻 円光院三条夫人』(新人物往来社)、
版画:野本健男
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〔江戸ソバリエ認定委員・(社)日本蕎麦協会理事 ほしひかる〕
第31話は「料理祖神 ― 磐鹿六雁命」を予定しています。 |