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ほしひかるの蕎麦談義
ほしひかるの蕎麦談義【バックナンバー】

ほしひかる

☆ ほし ひかる ☆


佐賀県出身、中央大学卒、製薬会社に入社、営業、営業企画、広報業務、ならびに関連会社の代表取締役などを務める。平成15年:江戸ソバリエ認定事業実行委員会を仲間と共に立ち上げる。平成17年:江戸蕎麦民話「蕎麦喰地蔵」「蕎麦いなり」「蕎麦えんま」の落語を企画する。(作・口演:三遊亭圓窓師匠)、平成19年:「第40回サンフランシスコさくら祭り」にて、感謝状を受ける。 平成20年:インターネットGTFの「江戸東京蕎麦探訪」にて(http://www.gtf.tv)、 韓国放送公社KBS放映のフード・ドキュメンタリー『ヌードル・ロード』を取材する。平成20年:江戸ソバリエの仲間(江戸ソバリエ認定委員会+鵜の会)と共に神田明神にて「江戸流蕎麦打ち」を奉納する。 平成20年:NHK-TV「解体新ショー」に出演する。平成20年:『至福の蕎麦屋』の執筆者グループ、執筆料の一部をアジア麻薬・貧困撲滅協会へ寄付し、感謝状を受ける。 平成21年:琵琶曲「蕎麦の花」の創作を企画する。(原案:中納言冷泉為久、構成・作曲:川嶋信子)、 現在:エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員、 (社)日本蕎麦協会理事、蕎麦喰地蔵講発起人、寺方蕎麦研究会世話人、フードボイス評議員(http://www.fv1.jp)、「紅そば・花まつりin信州蓼科高原2009」実行委員、「日本そば新聞」など各誌にエッセイを執筆中。著書:共著『至福の蕎麦屋』 (ブックマン社) 、共著『埼玉のうまい蕎麦75選』(幹書房)、共著『静岡・山梨のうまい蕎麦83選』など。 その他:「荒神谷遺跡の謎を解く」「朔太郎と私」などのエッセイ・コンクールに数多く入賞する。

ほしひかる氏
1944年5月21日生

【2月号】第44話 お国そば物語 ③戸隠蕎麦

☆「戸隠奥院燈明役勤方覚帳」
昔から名高い、戸隠蕎麦の初出は宝永6年(1709年)3月の「戸隠奥院燈明役勤方覚帳」だという。

この「戸隠奥院燈明役勤方覚帳」というのは、昭和38年から地元の信濃毎日

新聞社が「戸隠」総合学術調査を実施した際に旧:金輪院(現:今井旅館)保管の「奥院衆徒共有文書」の中の一冊として発見された。燈明役勤方とは、足かけ三年(8月16日~翌々年8月15日)奥院に参籠して、神前に燈明を上げ、お供え物を供える役のことであり、その燈明役の報告記録が「覚帳」である。

「覚帳」が書かれたころの時代背景としては、同年1月10日(旧暦2月19日)に徳川 五代将軍綱吉が死去し、寛永寺での法会が終わるか、終わらないころである。 

奥院は、今の戸隠神社の奥社のことである。現在の戸隠神社は奥社(祭神:天手力雄命)、中社(祭神:天意思兼命)、宝光社(祭神:天表春命)の三座からなっているが、古くから修験道の霊地として栄え、江戸時代には天台宗寛永寺の末寺となって戸隠山顕光寺本院(奥院)、中院権現、宝光院権現を中心に多くの堂社、岩窟、宿坊を持っていた。

戸隠には、この「覚帳」や他にも「奥院諸用日記」(1865年)などが存在する。それら古文書に記載されている献立は山国らしく茸を使った料理が多いようだ。その他にも蕎麦切、切麦、冷麦の麺類が記録されているが、これは寛永寺の影響であろうか。戸隠神社では、これらの古文書に記載されていた寺方料理を「古流祭礼御膳」として復元している(平成19年)。この「覚帳」や「奥院諸用日記」などを訳されたのは、二澤久昭氏(旧:正智院、現:二澤旅館)である。二澤氏は、戸隠蕎麦は、御祭礼のときに戸隠三院を統率する別当などにハレの寺方料理として振舞われたり、戸隠講の振る舞い蕎麦として徐々に一般的なもてなし料理へと変遷していったとされている。

現在の戸隠蕎麦は、 (1)盛るとき水を切らない、(2)根曲がり竹の笊にきれいに揃えて盛る、(3)それを「ぼっち盛り」という。(4)薬味は葱、地大根、山葵であるが、このような戸隠蕎麦の形が整ったのはいつごろであろうか?

参考になるのが、明治23年に発行された山田美妙著「戸隠山紀行」である。山田は前年の7月に戸隠を訪れ、こう書き残している、(1)縦六寸横四寸の楕円形の笊にきれいに揃えて、(2)いずれも盛蕎麦で、種物はない、(3)薬味は葱・山葵・乾海苔、と。

ここからはこんなことがうかがえる。 (1)江戸時代の寺方料理のころは、漆器に盛られていただろうが、明治中期の戸隠では竹笊にきれいに揃えてならべた冷たい蕎麦だったようである。(2)山田が「ぼっち盛り」という名を知らなかったという可能性もあるが、当時はまだ「ぼっち盛り」という呼称はなかったと思われる。(3)当時の薬味は季節によって違っていたが、寺社らしく臭いの強い葱は使っていなかっただろう。



☆蕎麦献納祭
昭和45年から始められた戸隠のそば祭りも広く知られているが、その要である蕎麦献納祭は昭和61年からだという。しかも今年(平成21年=2009年) の第40回蕎麦祭りは「戸隠奥院燈明役勤方覚帳」(1709年)から300年の節目の年に当たる。

というわけで、平年の蕎麦献納祭は中社で行われていたが、今年にかぎり奥社で開催されることになっている。

その日の11月7日、奥社鳥居の前には紅白の天幕が張られていた。午前10時、戸隠太鼓の合図で、戸隠流の蕎麦打ちが始まった。打ち方は、練り方、延し方、切り方の三名である。いずれも白装束に身を包んでいる。練り方は桶から柄杓で水を汲み取り、粉 ― 蕎麦粉2+小麦粉1 ― にそっと注いで、練り始めた。不思議なのは、戸隠は蕎麦の産地でありながら、小麦粉の量が割合多い点である。手に入りづらかったはずの小麦粉が多いのは、当時戸隠が江戸寛永寺の末寺だったという恵まれた境遇にあったせいだろうかなどと想像しているうちに練りが終わり、まとめた玉が延し方に丁寧に手渡される。延し方の麺棒は一本、140センチはありそうだ。円形に延し、巻いて手元に引いて延し台にドンドンと打ち付ける。そして最後に切り方に渡ってトントントンとリズミカルに切られて、戸隠蕎麦ができ上る。これから献納だ。奥院鳥居から参道を旗、法螺貝、太鼓、三方に載せられた献納戸隠蕎麦の行列が進んで行く。目指すは天手力雄命が祀られている奥社である。途中、有名な随神門や杉並木を通過する。参道を野猿の群れが横切るが、われわれ他国者には驚くべき光景である。やがて一行は奥社に辿り着く。この間、約一時間。奥社でお祓いを受けて、蕎麦献納祭は締め括られた。

社の中を見れば、大きな絵馬が飾ってある。言わずと知れた、「天の石屋戸」の神話 ― 踊る天宇受賣命、戸を開ける天手力男神、出てくる天照大御神、明るくなった高天の原と葦原中国 ― を描いたものである。そういえば、この参道では立冬(11月8日)と立春(2月4日)には日ノ出を真正面に拝することができるという。この気象事実といい、天照大御神の神話といい、戸隠社が日輪崇拝という原始宗教の原理によって成っていることをうかがわせる。

やはり戸隠は、古代人の息吹漂う聖域だったのである。
〔寺方蕎麦研究会発起人 ☆ ほしひかる〕

参考:「山口屋」山口輝文氏のお話、「二澤旅館」二澤久昭氏のお話、戸隠神社『戸隠信仰の光』、戸隠そば祭り実行委員会『戸隠そば達人の手引』、山田美妙著「戸隠山紀行」(筑摩書房)、原滋『身分社会の底辺』(信毎書籍出版センター)、『古事記』(岩波文庫)、

お薦めの本:「戸隠の巫女」(『川端康成全集第6集』新潮社)、「戸隠山にて」(『川端康成全集第27集』新潮社) 、津村信夫著「戸隠の絵本」「紅葉狩伝説」「信州雑記」(新学社近代浪漫文庫34)、
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