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鈴木貞夫のインターネット商人元気塾
鈴木貞夫のインターネット商人元気塾【バックナンバー】

鈴木貞夫

1956年一橋大学卒、同年現池袋パルコ入社、1976年サンチェーン代表取締役社長、


1989年ダイエーコンビニエンスシステムズ代表取締役副社長、1995年ローソン相談役、


1999年ローソン親善大使。現在ソフトブレーン・フィールド(株)特別顧問。


1992年(社)日本フランチャイズチェーン協会常任理事、副会長を歴任 。鹿児島出身

鈴木貞夫氏(すずきさだお)
1934年1月3日生

【2月号】


<コンビニ創業戦記>第21回
・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・


<サンチエ―ン・ダイエ―グル―プ時代(その3)>
――シテイ・コンビニエンスへの挑戦(1)――


  前記の3項に加えて、当時の「ロ―ソン」とのグル―プ内競争に於ける、「サンチェ―ン」の優位性と独自性を強めるための努力は、次のように更に続く。

  4・昭和56年(1981)10月、かねてより準備を進めてきた第二次コンピュ―タ―・オンラインシステム「ATLAS」=ATTACK TO LABOURLESS SYSTEM をスタ―トさせたこと。
これは、店舗に於ける発注システムを大幅に改善し、売上・仕入れ情報の省力化と即時化、そして店舗と本部間のTWO WAY化 を図るものであり、当時としてはチェ―ン・オペレ―ション・システムの革新的な前進を意味していた。 スタ―ト時は、中々思惑通りに進まず、修正を余儀無くされる場面も多々あったが、その後、IT技術の急速な進歩と共に、幾度もの大規模なバ―ジョン・アツプが繰り返されて、今日の世界に誇る日本のコンビニ情報システムに進化していくのである。 サンチェ―ン「ATLAS」システムは、その初期的な原型とでもいうべきものであった。

  5・昭和57年(1982)8月、コンビニエンス「マガジンショップ」11店舗同時オ―プンに挑戦したこと。
これは前記2項の「プチサン」と同じように、超小型店の活性化策の一つとして、「駅のキオスク」のような「街のキオスク」は出来ないだろうか、との発想から生まれたのである。 コアカテゴリ―を、当時全盛を極めていた雑誌・マガジンを中心とし、それにサンチェ―ンの売れ筋商品を絞り込んで売場を作ろうというものであった。 初めからチェ―ン化の可能性を試そうとの思いから、取引先・日本出版販売(株)の協力を得て、11店舗を同時オ―プンさせた。 2年ほど手を尽くしてみたが、標準コンビニのような効率が上がらず、失敗に終ったのは、残念の極みであった。

  6・昭和57年(1982)9月、本格的ストアブランドとして「サンチェ―ン牛乳」「サンチェ―ンアイス」を全国一斉発売したこと。
これは、地域のお客様にストアブランド商品で健康と美味しさをアピ―ルし、チェ―ンイメ―ジを高めようと、森永乳業(株)、小久保製氷(株)の協力のもとに開発した商品である。 その後の、サンチェ―ン・ストアブランド開発を推進していく先駆をなすものであった。

  7・昭和57年(1982)10月、サンチェ―ン新C Iシステム「シテイ・コンビニエンス」を 導入し始めたこと。
その頃のサンチェ―ンのコ―ポレイト・アイデンテティは、創業以来の手作りの延長であり、店舗数の割りに知名度も低く、コンビ業態の新鮮さが伝わらず、実際の所、二流イメ―ジが強かったといえよう。  1年ほど前から、当時C Iプランナ―として令名を馳せていたパオスの中西社長の協力を頂き、調査、研究、実験を重ねて、新しいサンチェ―ンの「C I システム」を完成させたのである。

  そのキ―・コンセプトは「シテイ・コンビニエンス・サンチェ―ン」であった。 ①・サンチェ―ンの全店24時営業の優位性を生かす ②・24時間都市・「ネバ―・スリ―プ東京」のニュ―ビジネス・ニュ―ストアとしての先進性イメ―ジ、都会型生活のスマ―トさを強調する ③・若さ、気楽さ、親しみ、元気、活動性,「日輪」のバイタリティを感じさせる ④・基本的に、セブンイレブンの米国的田舎っぽさにコントラストを付ける ⑤・大量出店、多店舗展開のためのシステム化・標準化を進める などがその要点であった。

  当時、店舗数は業界3位の約600店舗に達していたが、新店は言うに及ばず、既存店も順次,新C Iによる改装を行い、事務帳票や、ユニフォ―ム、印刷物、広告、商品パツケ―ジなども体系的に変更され、サンチェ―ンのチェ―ンイメージが、「シテイ・コンビニエンス」へと、一新されてゆくことになる。 お客様や、お取引先、ライバルチェ―ンの人々からも、「お店が随分スマートに、明るくなりましたね」と好評の声を頂くことが出来た。 「シテイ・コンビエンス」は、都会型生活を手軽に、身近で提供していく「地域で一番親切で便利なお店」というサンチェ―ンの社会的使命遂行の決意を、改めて広く宣言したものといえよう。 これで1000店舗は云うに及ばず、5000店舗をも視野に入れたイメ―ジ戦略が確立できたと意を強くしたものである。            



  8・同じ昭和57年(1982)10月、新本社として台東区上野に移転したこと。
サンチェ―ンは創業時から、文京区茗荷谷に本社を借りていたが、当時ダイエ―が所有していた上野のビルを譲渡して貰い、自社所有の本社ビルを開設する事が出来た。

  私は、新本社の開設式で、明るい顔で、希望に目を輝かせている社員達の前で次のように訓示した。 『新本社開設は、二つの意義を持っている。

  一つは、立地の変化の重要性である。 従来の地、「茗荷谷」は江戸の昔より文人の地であり、学問・教育の気風豊かな、かつ閑静な住宅地でもあった。 これに対して新しい上野の地は、江戸以来、北門鎮護の寛永寺の門前町であり、浅草と並んで江戸下町の中心として、大いに栄えた商業実践・江戸商人の歴史の名残濃い活動的な街である。 我々は、「学習研鑚と静の茗荷谷」から、「商業実践と動の上野」へと根拠地を移したが、このことは将に、サンチェ―ンの歴史的転換期を象徴していると言える。 我がサンチェ―ンは、今こそ、「学習研鑚と生育の時代」から、「商業実践と成果の時代」へと大きく舵を切らねばならない!

  二つは、恒産を持つことの重要性である。 恒産は、商人の最も基本的な条件である。 信用の基礎をなすものであると共に、その場所に根を生やして商売に打ち込む覚悟と姿勢を示すことでもある。 新しい本拠地を定めて、決意も新たに一大前進の戦いを展開しよう!』と。

  新本社ビルの1階には、新C Iシステムの導入第1号店として、上野店をオ―プンさせた。 それから毎日のように、お店を激励に訪れるのが私の日課となったのである。       (以下次号)

  
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