1956年一橋大学卒、同年現池袋パルコ入社、1976年サンチェーン代表取締役社長、 1989年ダイエーコンビニエンスシステムズ代表取締役副社長、1995年ローソン相談役、 1999年ローソン親善大使。現在ソフトブレーン・フィールド(株)特別顧問。 1992年(社)日本フランチャイズチェーン協会常任理事、副会長を歴任 。鹿児島出身 |
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鈴木貞夫氏(すずきさだお) | ||
【7月号】 |
<コンビニ創業戦記>第38回
<サンチエ―ン・ダイエ―グル―プ時代(その20)> 昭和62年(1987)春ごろ、神奈川地域のサンチェーン直営店舗従業員の一部に、 労働組合を結成しようという動きが起こる。 当然、数人で隠密裏に準備活動を進めていたから、初めの内は、正確な情報が伝わらず、過激な思想的背景が在るのではないかと、強く懸念させられた。 私自身、20歳代の百貨店時代に、労働組合活動に熱中した経験があり、労働運動には十分な理解がある積もりであったが、経営者の立場で、いざ労組結成の動きに直面すると、 いささか緊張を強いられることになったのである。 出来るならば、穏健で協調的な労働組合であってもらいたい、というのが私の本心であった。 当時のサンチェーンの人事担当役員は、狩野成之専務であった。 狩野さんは、彼ら活動家たちや、彼らの後援者となったゼンセン同盟、ダイエー労連などとの接衝の窓口となり苦労されたが、当時のダイエー鈴木達郎専務の協力も得て、サンチェーン労組結成にいたる段取りを纏めてくれた。 余談であるが、鈴木達郎さんは、ダイエーの大卒入社1期生、中内直参・子飼い幹部の中でも深沈重厚な人柄で、中内さんが最も信頼していた懐刀的な人物であったと思う。 外から見ると、中内さんの姿が大き過ぎて余り分からなかったかと思うが、私の眼からは、当時のダイエーグループ経営の内部的要は、社内の人望厚い鈴木達郎さんが果たしておられたように見えた。 その鈴木達郎さんが、後の平成6年(1994)夏、時あたかも「ローソン5000店達成」の記念すべき年に、50歳代の若さで突如として急逝されたのである。 鈴木達郎さんを突然に失ったことは、中内ダイエーにとって大きな悲運であり、その後のダイエーグループ経営に図り知れない衝撃を与えるものとなった。 鈴木達郎さんは中内さんにとって、譬えて言えば、太閤・秀吉にとっての大和大納言・秀長とでもいうべき存在であったのではないかと思う。 秀長亡き後、豊臣政権の不安定さが、徐徐に深まっていくのは、史実にある通りである。 これ以上詳説しないが、バブル崩壊による急激な経済・社会状況の激変や阪神大震災での大被害なども加わって、それまであれほど隆盛を誇ったダイエーグループが、さしもの経営求心力を次第に弱め、衰運に向かうことになるのは、かえすがえすも、残念ことであった。 幸い、サンチェーン労組結成の中心メンバーであった大田正志さん、近藤郁郎さん、彦根さんたちは、極めて穏健で、店舗現場の労働条件を労使協調で実現したいという建設的な思考の持ち主であった。 私は約一年有余にわたる何回かの接触を通じて、そのことを確認し、昭和63年(1988)6月、当時のゼンセン同盟傘下のダイエー労連に加盟することを含めて、サンチェーン労働組合結成(中村覚委員長)を承認し、祝福した。 ここに、その頃急成長を続け、「コンビ二独り勝ち」と注目され始めていたコンビ二エンスストアチェーン業界にも、漸く近代的な労使関係を確立していく契機が訪れたと見ることもできるだろう。 業界初ともいうべき「サンチェーン労働組合」の誕生は、まさにその先駆けであった。 私は、結成大会後の祝賀会で、次のような趣旨の祝辞を述べた。 「本日の結成大会おめでとう。 今までは、私自身が社長兼組合委員長のような気持ちで仕事をしてきたが、やはり家父長的な経営に片寄り、母親的な温かみに欠けていたと思う。 今後の健全な労使関係の下では、父親が経営者、母親が労働組合のようなものであり、ここに漸く両親が揃う家庭になったわけだ。 我々小売業は『生活者の幸福追求産業』といえるが、労働組合も『働く者の幸福追求』が使命である。 今日からは、『人間の幸福追求』と言う共通の土台の上で、共々に協力して、共栄の道を歩んでいこう」と。 サンチェーンの創業当時、コンビ二エンス・ストア運営の基本システム・ノウハウ創りは、 直営店に於ける本邦初の「全店24時間・年中無休営業体制」と、「短期急速多店舗展開方式」を両立させるという、非常に困難な課題への挑戦を通じて、文字通り、見様見まねの手創りで行わざるをえなかったことは、既に述べた通りである。 創業当初の数年間は、私を初め創業期の社員一同が、心を合わせ使命感に燃えて、殆ど不眠不休といってよい苛酷な労働条件の下で、我を忘れて懸命な努力を重ね、乗り切っていったのである。 当初、店舗には、仮眠用ベッドが備えつけられていたし、本部の事務所には、貸し布団を持ち込んで、毎日のように泊り込むこともあった。 これも、創業時という非常事態だからこそ可能だったことである。 創業当初は、「24時間年中無休営業」に伴う勤務・労働の仕組みを如何に組み立て、効率的にマネジメントしていくかと言う労務問題が、極めて重要な経営課題であった。 サンチェーンの成長に合わせて、如何に早く常識的な労働条件を実現するか、常に腐心することになった。 その過程で、私は幾度か、労働基準監督署からの呼び出し指導を受け、始末書や、改善計画書を提出したことであろう。 そこに本来、労働組合が生まれるべき必然の土壌があったことは、否定しえない。 その課題を何とか解決しようと苦心し、試行錯誤を繰り返しながら構築したのが、既に詳説した、現在のローソン・チャレンジ・オーナーシステムの原型となった「サンチェーン社員独立オーナー制度」によるフランチャイズチェーン化の推進であり、店舗従業員の ハッピー・ワーキングを実現する「JTPPACシステム」などの構築であった。 しかし現実は、中々そう簡単に、理想的には、進行しないものである。 これらの施策が効果を挙げるには、「浸透」と「定着」、そして「体質化」の過程という、ある程度の時間の要素が不可欠であったといえよう。 「サンチェーン労働組合」は、やがて平成元年のサンチェーン・ローソン対等合併後、「ダイエー・コンビニエンスシステムズ労働組合」の母体となり、さらに現在の「ローソン労働組合」へと進化して、全国の加盟店と共々に、ローソンの飛躍的発展を支える原動力の一つとなっていくのである。(以下次号) |
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