第106話 大人物

     

 

蕎人伝13 池大雅

 

 なぜか近ごろはあまり聞かなくなったが、私の若いころは「大陸的」という言葉をよく耳にしたものだった。本来は、小事にこだわらず度量、気はくが大きい人のことを讃えて言うのだろうが、感覚、感情がのんびりしている人、あるいはそれが度が過ぎる人までからかいながら「大陸的」と言ったものだった。

 そのことを思い出させてくれたのが、郭沫若の『歴史小品』を読んだときだった。孔子、孟子、荘子、老子、始皇帝、項羽、司馬遷、賈誼のエピソードを綴った短編集だ。みな乞食同然の生活であっても、志は大きく泰然として生きている人ばかりである。 

 それでは、同じ大陸国のアメリカ人も「大陸的」というだろうか。これはいわない。あくまで中国大陸の人だけをいうのである。なぜか?

 私が思うに、こういうことではないだろうか!

 多くの民族は神様というものをもっているが、漢民族には神様がいなかったらしい。だから、彼らは現実的な哲学を生んだ。孔子(紀元前551-479)、老子(?孔子と同時代か?)、孟子(紀元前372-289)、荘子(紀元前369-286)らがそうである。身なりは乞食同然でも、宇宙の真理、この世の道理を打ち立てて説けば、師となる。しかしそんな偉人は世紀に1人か2人ぐらい生まれればいい方だ。ところが、世間では身なりや性格が度を外れた人だけをとらえて「大陸的」と揶揄していたわけである。

 しかし、それは日本が中国の傘下にあるときだけであった。戦後からアメリカの傘の下に移ったとき、われわれは「大陸的」という人の見方も揶揄も捨てたわけである。

 【傘下国の証明「漢委奴国王の金印レプリカ☆ほし蔵

 

 話は江戸時代に遡るが、たいていの人から「大陸的だ、大人物だ」と評価された人物がいた。画家の池大雅だ。そもそもが、大雅の本姓は池野というのだが、中国風に「池大雅」と名乗ったぐらいだから、自らも大陸的ということを好んでいたのかもしれない。

 或る人いわく ―、とある日のこと、大雅が出かけたあと、筆を忘れていることに妻の町が気付いて、追っかけていって、主人に筆を渡した。すると大雅は「どこのどなたか存知ませんが、ありがとうございます」と礼を言ったという。昔の人はこれを評して、「大雅は大人物だ」と褒めた。今だったら、奥様たちから「バカにするな」と詰られるだろう。

 或る人いわく ―、とある日のこと、歌の師匠の冷泉為村先生から蕎麦を頂いたので、蕎麦好きの絵師伊藤若冲に食べさせてあげようと招いたまではよかったが、二人とも絵画談義に夢中になり、蕎麦を振舞うことをすっかり忘れてしまったという。昔の人はこれを評して、「大雅は大人物だ」と讃えた。今だったら、単にうっかり者として片付けられるだろう。

 しかしである。「バカにするな」「うっかり者」と詰ることは人間関係のみを主軸にした小さな見方ではないだろうか。

 そんなことを思わせる絵が、川端康成のコレクションとしても有名な与謝蕪村との競作『十便十宜図』がある。

 大雅と蕪村が、憧れていた文人李漁家(明末~清初)の七言絶句を書き、絵を添えた。大雅が都に比べ山中での暮らしは、「十の便利さ」があると明るく大らかにのびのびと賛歌し、蕪村が四季折々に変化する自然の素晴らしさの「十の宜しき」を細やかに優しく詠った絵である。

 二人は、この『十便十宜図』で地球に存在する全ての生命を讃歌しているのではないだろうか。ひいては「人間の幸せとは何か?」を世に問うているのではないだろうか。

参考:ほしひかる「蕎人伝」第105104102999188878270656462話、ほしひかる「蕎麦夜噺-第28夜」(日本そば新聞)、郭沫若の『歴史小品』(岩波文庫)、相見香雨『池大雅』(美術叢書)、北原亜以子「あやまち」(中公文庫)、

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕