第244話 A石とB石の転運

     

搗臼と碾臼のイメージ☆ほし絵】

【小さな石の転運】が地球の文明を二分した、というお話をしたい。
ずっと以前、「オリエント博物館」(池袋サンシャイン)に、パンシリア・ユーフラテス河東岸のルメイラ村遺跡から発掘された「石皿と磨り石」や竈が復元展示してあった。今も、あるだろうか。
遺跡は紀元前1800~700年のものらしいが、その地域の人々は小麦を粉にしてパンを焼いていたようだ。

そもそも臼というものは、太古の祖先が二つの石で穀物を潰すことを発見したことから始まるのだろう。
ある者は石の上に穀物を乗せてもう一つの石で打ちつけて潰した(A)。別の者は石と石を磨り合わせて潰した(B)。そこからAは搗臼(日本では単に「臼」ともいう)へ、Bが碾臼(日本では「石臼」ともいう)へと進化していったことは容易に想像できる。

その祖先人とは、アジアとヨーロッパの境辺りの人たちであったろうと推測されている。
その後、これらの臼は交易路を通って、東洋と西洋へと広がっていったが、高温多湿地帯東洋米文化圏」では、搗臼で精米してそれを粒のまま水で煮炊きして食した。乾燥地帯西洋小麦文化圏」では、碾臼で粉にしてそれを火で焼いて食した。粒の時代から水で煮炊きしていた東洋人は碾臼が伝来して粉にすることができることがわかっても、水で煮炊きできるよう線状にして食べた。これがアジアの麺である。

ただし碾臼Bの方は、効率を求め、前後運動で粉にする(サドルストーン) ⇒ 回転運動で粉にする(ロータリーカーン) ⇒ 摺動運動で粉にする(ロール製粉)へと進化しつつヨーロッパ全土へ普及していった。この過程において、ヨーロッパ人は人間・動物・風・水・蒸気などの力の活用を知り、それが産業革命の扉を開くことになる。言い換えれば、小麦=碾臼が、科学技術への道を拓くことになったともいえるのである。

参考:吉村作治監修『カイロ博物館―古代エジプトの秘宝』(Newton Press)、サンシャイン「オリエント博物館」

〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる