第151話 「天下国家を治るに必ず農をすすめ」

     

食の思想家たち六、 宮崎安貞

  縁あって、『斉民要術』の勉強会に参加させてもらった。『斉民要術』というのは、中国北魏の時代の「農書」であり、世界の農学史上で最も早い農業の専門書であり、そして「料理書」でもあった。これが書かれた6世紀半ばというのは日本ではまだ飛鳥時代であったことを思うと、中国の大きさに驚くばかりである。

 わが国はといえば、縄文晩期に水田稲作が伝わって以来、農業国であったことは異論がないだろう。そんなわが国で初めて「農書」が出版されたのはやっと江戸時代になってからである。つまり「農業学」のない農業を営んできたのが、日本である。われわれは技術的なことは秘密にしたがる国民であったのだろう。その上、身分制度が影響し、最下級の人間が携わる農業を学問の対象とするのはどこか憚るものがあったのだろう。

 そんなわが国で初めて『農業全書』を出版した男がいる。宮崎安貞(1623~97)である。その行動と実績によって彼をこの思想家シリーズの列に加えたい。

 

 宮崎安貞の父は安岐国浅野藩の山林奉行であった。だが、その後なぜか浪人になっている。そして安貞自身も苦労の末、福岡黒田藩で禄を食むようになったかと思ったら、やはり父と同じように浪々の身となってしまった。思うに、この父子には宮仕えの苦手なところがあったのかもしれない。

 安貞は西国各地へと流浪の旅に出た。当時の日本列島はほとんどが、山林と田畑ばかりである。それでもその景色は国によって異なり、作物、農機具、農作業のやり方が違っていた。そしてある地区では同じ作物を上手くやっている所もあれば、そうでない所もあった。しかも上手にやっている所の百姓にその訳を尋ねても口を噤んだまま決して教えようとはしなかった。このことに安貞は衝撃をうけた。

 数年後、安貞は福岡に戻り、刀を捨てて、今の福岡市効外の周船寺という所で百姓になった。彼は30年、昼は農作業、夜は農業関係の本を読みあさった。とはいっても、当時の日本に農書はなかった。彼が参考にしたのは中国明末期の徐光啓(1562~1633)という人が書いた『農政全書』(1639年刊)であった。

 そのうちに安貞は自分の立っている位置に気づき始めた。「私は生まれながらの百姓ではないが、多少の農作業の経験がある。また各地を歩いて観察した経験と中国の農書にも目を通してきた知識がある。」「しかも、わが国にはまだ農書らしきものはない。ならば、私の経験を活かして日本初の農書を書けないか!」ということだった。 

 安貞は1696年に筆をとり、原稿はでき上った。

 もちろん、蕎麦の項も忘れてはいない。

 蕎麦の栽培についてたっぷり紹介し、食べ方についても「蕎麦粉を餅にして蒜と合せ煮て食し、蕎麦切のようにこしらへ、賞味する」と紹介している。

 そして1697年7月(元禄10年)、ついに『農業全書』が出版された。

 編集に協力したのは貝原益軒(137)の兄の楽軒であった。ただ、残念なことに安貞が亡くなったのも、書が刷り上がったのも同年同月だった。そのため京都の出版社から届いたのは彼が息を引き取った後であった。

 しかし、貝原益軒、水戸光圀ら社会の人はこの書を絶賛した。以来、わが国でも農業が学問として研究されるようになったのである。

  宮崎安貞は自序に言う。「代々の聖王賢君、天下国家を治るに必ず農をすすめ稼穡を教えるを以て先とし人倫の道を正すを以て本として給はざるはなし。

 現在の日本に最も必要な考え方である。

参考:宮崎安貞『農業全書』(岩波文庫)、筑波常治『日本の農業につくした人々』(さ・え・ら書房)、

「『斉民要術』の麺・粥・餅を試作する」(江戸ソバリエ協会サイト「国境なき江戸ソバリエたち」)http://www.edosobalier-kyokai.jp/ 

「食の思想家たち」シリーズ(「蕎麦談義」67話 村井弦斉、73話 多治見貞賢、137話 貝原益軒、138話 林信篤・人見必大、142話北大路魯山人、151話 宮崎安貞)、

〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる