第480話 《江戸天》

     

《胡麻揚》→《天麩羅》→《天麩羅蕎麦》→《天盛り》→《天ざる》

『そばもん』の山本先生と久振りに「室町砂場」でお会いした。北京の学校に『そばもん』20巻を寄贈することにしたので、その内の1冊にサインを頂くためだった。
二人は『そばもん』などの話をしながら、一通りの料理を頂き、〆はやはり「室町砂場」発祥の《天盛り》にした。

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《天麩羅蕎麦》や《天盛り》や《天ざる》は、今や蕎麦屋の定番であるが、そもそもが《天麩羅》というものが、いったいいつから登場したかは定かではない。よく言われることが「家康は鯛の天麩羅を喰って死んだ」という話があるが、この《天麩羅》とは正確には《胡麻揚》である。
蕎麦麺や蕎麦つゆにも【江戸蕎麦】の前身として【寺方蕎麦】というものがある。《天麩羅》も同様で前身は《胡麻揚》である。つまり家康の時代はまだ饂飩粉でまぶしていない揚げ物であった。
では、いつから今のような衣を付けるようになったのか? それは分からないが、1780年頃に誰かが衣をまとわせたようである。これが《江戸の天麩羅》となったわけであるから、エライ発明である。
一方《蕎麦切》界では、「更科」の御前蕎麦や「砂場」などの高級店やちゃんとして店ばかりでなく、庶民のための屋台蕎麦というのも現れた。それを見たある者が、蕎麦屋台の隣に天麩羅の屋台を並べた。すると、庶民たちはその天麩羅を買い、そのまま隣へ行って、蕎麦に天麩羅を入れて食い始めたことが、想像できる。これが《天麩羅蕎麦》の始まりだろう。
《江戸の天麩羅》も《天麩羅蕎麦》も、江戸っ子の人気となった。当時の天麩羅は江戸前で捕れた季節の魚介類だった。‘江戸前物’も‘季節物’も今から見るとこだわりのように見えるが、当時はごくごく日常的なことであった。
とにかく、この《天麩羅》や《天麩羅蕎麦》は明治・大正・昭和、そして以降の人にも食べられ続けた。
そこに「室町砂場」が登場する。
昭和の終戦後、「室町砂場」で《盛り蕎麦》のつゆに天麩羅を入れたのである。このときが《天麩羅蕎麦》とは別物の《天盛り》の誕生である。
やがて、これは《天ざるor天せいろ》つまり《天麩羅+ざる蕎麦orせいろ蕎麦》という今や全国どこの蕎麦屋でも欠かせない定番へと成長していのであるが、そのことはまた別の機会に譲るとして、山本先生と二人で「つゆに浸って崩れそうになったこの衣が旨い」と満足していた。これが昭和の味というものだろう。

〔文・挿絵 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる