第638話 コロナ禍の日本人

      2020/05/31  

☆コロナ禍
よく、「テレビは現在の証人。映画は時代の証人」(石光勝)といわれる。
この言葉に私は、「真実は文学が伝える」ということを加えて紹介することがある。
なぜなら真実の情報には署名的な証明が必要であるが、真実を描いた小説は作品さえあればいい。ゆえに作者不詳の『竹取物語』や『平家物語』は名作になった(634・637話)。またこの度のコロナ禍が始まったとき、『ペスト』と『赤い死の仮面』という文学から次の真実を読み取ったが、今回のコロナ禍においてもそれは間違ってはいなかった。
①疫病はいつの間にか蔓延し、いつの間にか収束する。(625話)
②防疫対策は専門家(医療など)でないと対処できない。(625話)(628話)
③とくに政治家は何の役にも立たない。(628話)

かように、なぜ「真実は文学が伝える」か、人間は数奇な体験を人類の記憶として芸術作品に残そうとするものであるが、それが小説『ペスト』やピカソ画の「ゲルニカ」なとせのように海外では顕著なのである。この度もまたイタリアの著名な作家パオロ・ジョルダーノが『コロナ時代の僕ら』を4月に上梓した。
しかし、近現代の日本においてはそれが少ない。昔はあった。江戸末期の広重の『江戸百』は安政の地震後に江戸の美景を描き遺したように、江戸以前はあったが、明治維新以降とくに大正・昭和はあまりその傾向が見られない。
そもそも維新政府は、最初「明治政府の言うことは正しく、徳川幕府がやってきたことは間違っていた」というのが大儀であった。そうしたうえで欧化方針をとってきた。しかし国民というのは単純化して受け取るものである。「欧化=舶来=高級本物で、これまでの日本の伝統文化=低級偽物」と受け取っていった。滑稽な話であるが、たとえば列車車掌の検札は洋服を着ている者は信用ある人物だというわけで検札なしでパスしてくれたらしいが、和服を着ている人間は胡散臭そうにジロジロ見ながら切符点検するのはザラであったと資料に書いてある。食事においても肉食が上等で、蕎麦などはどんどん大衆化俗化扱いされていった。つまり今までの日本は古くてダメで、西洋が新しくて正しいというわけである。
それは戦後以降も同じで、アメリカ絶賛や追従が今も続き、食事はフランス料理やイタリア料理はオシォレで、和食はダサイという感覚のままである。
そんな国民性になったのだから、体験記録どころか、逆に戦争や忌まわしい記憶を一日も早く消そうと努力する。日常の会話でも、過去の悪かったことを口にするのは後向きだと顔をそむけられる。だから、かつてのスペイン風邪でも日本人は40万人も亡くなったのに、その体験から得た作品がない。
もちろん終戦直前に落とされた原爆の恐怖を綴った詩(峠三吉『原爆詩集』)などはある。しかし日本人はそれを「人類の記憶」として世界に発信しようとはしない。そんなことをやれば、社会に、政府に反抗しているように世間から見られるのことを恐れるかのように、口を閉じている。だから近現代の日本人は大きな智が身に付かない。これが日本である。
だからこそ、「原爆詩」の朗読を続けている吉永小百合さんは偉いと思う。(635話)
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ こどもをかえせ
にんげんをかえせ

そこで、この度の犠牲者の家族の無念も忘れないように記しておきたい。
日本の宝を奪ったコロナが憎い
(仲間をコロナで亡くした、コメディアン加藤茶の言葉)
悔しくて悔しくて・・・
(女優の妻をコロナで亡くした俳優大和田獏の言葉)

☆新型コロナ禍
ところで、今回のコロナ禍では過去の疫病時と違う点が問題となった。
④医療崩壊
⑤グローバル経済
⑥デジタル監視
⑦米中対立

医療崩壊は、あたかもコロナのため起きたかのような報道であったが、本当の原因は政府が医療に効率化を求めた結果、感染症病院・スタッフ・器械・予算を削ったためである。なのに、それを指摘する人はいなかった。
そもそもが、多くの人々が信奉したグローバル経済は結局のところコロナの原因にこそなれ(631話)、人間の生命を守らないことが証明された(歴史家人口学者エマニュエル・トッド)。
また、激しくなる米中対立と、中国を中心としたデジタル監視社会の到来に世界の知識人たちは憂慮している。(636話)
思い返すと、中国の経済規模は、今からたった20年前の2000年は日本の1/4だった。それが10年前に逆転した。つまり2009年までは日本が優位だったが、2010年に中国が日本を越してしまった。そして気が付けば昨年の2019年は中国は日本の3倍になり、大国になっていた。
2009年の逆転までは、日本はJapan as No.1とよばれ、日本的経営は讃えられたり、叩かれたりしていた。
日本的経営の特徴はいろいろあったが、雇用関係においては、①新卒一括採用、②年功序列、③終身雇用が特色であった。これが日本式の時間をかけて人を育成する法であったはずである。
ところが日本のメディアは海外からの批判に合わせて、日本的経営を「古くて遅れた悪しき慣行」として責め立て、国民もそれに同調した。
そもそもが「的」というのは「そのような」ということであり、確定のニュアンスはない。だけど「式」とすれば、公式・正式となるはずである。だから、日本の経営学者たちは「日本式経営」の論を進め、世界に認めさせればよかったが、そのようなことはしなかった。なぜなら日本の学者もまた欧米の論が正しいと思っている種族だからである。
かくて、「日本的(式)経営」論は敗退し、ゆえに日本は No.1の地位滑り落ちて戻ることはなかった。
同時に、欧米日は経営の効率を求めて中国に生産拠点を置いていった。当時の某経済紙は「これが新しいビジネスモデルだ」と、再び「日本は遅れている」式の記事を書き立てて企業人を煽った。(636話)
また会社は人員の合理化にも手を着け始めた。某経済紙はリストラ敢行する経営者を勇気のある経営者として褒め称えた。当時の心ある知識人たちは人間を合理化の対象にするとは! 禁断の聖域まで手をつけるのか!と批判的であった。にもかかわらず、当時広報を担当していた私のところへ記者から一週間おきに電話があった。「御社はまだリストラはないのか」。あるいは「リストラの記事を書かないと編集長に叱られる」と泣きが入ることもあった(631話)。その経済紙の編集長はその後、某大学の教授になったりしたのだが・・・。
そのころから「人材」という言葉が当たり前のように使われるようになった。「人間も経営にとっては材料のひとつ」というわけである。

いずれにしろ、今回もまたパンデミックに国家政治は役立たないことが、世界中で実証された。であるのに、国家による監視社会が登場しようとしているのであるが、実は世界中の人は、国民の利己心を抑えて大きくなった国が、世界レベルで利己的な行動をとろうとしている(社会学者大澤真幸)ことに不気味さを感じているのである。その不気味さは独裁国家ばかりではなく、巨大企業、〇〇一強ですら、実は不気味なことなのであるが、もっと怖いのはそれがいつの間にか現実的になることがあるからである。違う例であるが、前にFACE BOOKが通貨を発行しようとした。さすがに、アメリカ政府によって潰されはしたが、これが実現されれは一企業によって世界が支配されるところである。不気味とはこういうことである。
それゆえに、米中対立は世界にとって大変な問題であり、そこでアジアが第三極にという声も出てくる(636話)。アジアが・・・、ということは日本が・・・ということにもなる。
しかし、この度のパンデミックで国家というものは役立たない。期待されるのは自治体・組合・市民のNGONPOといわれ始めた。とくにドイツでは過去の全体主義という苦い経験から、国家が強権になることを教訓として避けていたむきがある。
そういう点では、NGO・国連職員の伊勢崎賢治は、世界の中で日本は「人畜無害」と思われているが、逆にいえばそれは日本の特性である。だから世界の紛争国のつなぎ役になれると言っている。
この「人畜無害」の元は、良くも悪くも、ありがたい「憲法九条」というお経のおかげである、といわれている。
もうひとつ「この人畜無害」ということと関連して、日本の国民はズルイという論がある。
日本国民は、伝統行事は天皇に任せ、国民は伝統行事なんか古くてイヤダと言いいながら、それでもテレビで皇后さまの十二単衣のお姿を見れば「あゝ素敵♪日本人に生まれてよかったわ」と感動しているとか、危険なことや大事なことはアメリカに任せ、国民はテレビでノンキにお笑い番組を観ながら過ごしている、というわけである。これが「人畜無害」の所以であるが、要するに喧嘩をする気も実力もないから、却って和平交渉に向いているとは皮肉な価値だ。

☆ポストコロナ・命の産業
とにかく、上記の④⑤⑥⑦は世界が経済第一主義に走ったことに起因することだけは間違いない。
そこで問題になるのが、ポストコロナの世界である。言葉を換えれば、19世紀には19世紀の、20世紀には20世紀の時代があったはずである。では21世紀はどういう時代かということになる。
それを考えた場合、これまでのように経済第一主義でいいのかという問題が、コロナ・パンデミックから浮かび上がっている。
思想家のジョン・デューイは「行き詰まりは、目的より手段を優先させるところからくる」(630話)と言った。
われわれ人間の目的は幸せになること、経済はその手段であるはずである。それが入れ替わると、人間を犠牲にしてでも経済第一となる。医療もそうである。病院は人間の命を助ける所、それを経営効率を第一としたために、医療崩壊が起こる。それが20世紀後半だった。
19.20世紀と21世紀は違うやり方(歴史学者磯田道史)があるはず。
その一つが、人間尊重主義を第一とした「倫理資本主義」(新実存主義者マルクス・ガブリエルが唱えている)の下で、「命の産業」(経済学者&思想家ジャック・アタリ)への投資という道筋だろう。(631話・634話)
西村経済再生大臣(兵庫県)や高市総務大臣(奈良県)はデジタル化IT化を進める法律を作ろうとしているが、非人間化政策を進める彼らの眼の光が不気味でならない。

☆ポストコロナ・地球船
では、あらためて21世紀ということを考えると、最近の災害・疫病には同時多発性が見られることがよく言われている。
とすると、21世紀はもう地球全体を一つの「地球船」と考えた方がいいだろう。たまたま日本の最初のコロナはクローズ客船のクラスターだったが、もはや21世紀は地球そのものが船である。
地球には人間も動物も自然環境も乗船している。そうなると、単なる人間尊重主義だけではすまされない。それが過去のパンデミック(630話)と大きく異なるところだ。
精神科医心理学者のヴィクトール・E・フランクルは「人間が全てとなったときこそ、人間主義は危機に瀕る」と言っている。また元オリンピック陸上選手の為末大は「人類はもっと謙虚になるべき」と言っている(636話)。
どうやら、21世紀の視点はここにありそうだ。
だからこそ、17歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリ(634話)が真剣になって叫んだ言葉に大人たちは衝撃を受けた。
あなたたちが話しているのは、お金のことと、経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか! 30年以上にわたって、科学ははっきりと示してきました。それに目をそむけて、ここにやって来て、自分たちはやるべきことをやっていると、どうして言えるのでしょうか。必要とされている政治や解決策はどこにも見当たりません。

(中完)

〔文 挿絵 ☆ エッセイスト ほしひかる