第668話 食の礼儀とマナーから

      2020/10/29  

『世界蕎麦文学全集』物語10

 ☆カタカナ文化
   蕎麦屋さんなどへ行ったとき、コース料理のときは料理とともに「御献立」が置いてある。また普通のときは一品一品の料理名を書いてある「お品書」が卓の上に置いてあって、客はそれらから食べたい物を選ぶことになっている。
  たまに間違って、全てメニューとしている店がある。たぶんカタカナの「メニュー」が一般的になりすぎたためのことだろうが、日本では「御献立」と「お品書」は違うように認識する慣習があることを知ってほしいと思っている。

 似たような話だが、「礼儀」と「マナー」もその傾向がある。「礼儀」というのは、それこそ礼儀正しい文書以外、今はあまり使われなくてなってきて、しゃべるときなどは「マナー」と言う方が一般的になってきた。
   ただし「礼儀」と「マナー」は似ているようだが、ちょっとちがうところがある。実は日本には「礼儀」はあったが「マナー」はなかったのである。どういうことかというと、「礼儀」とは敬意を表す法であり、その敬意とは〝崇める〟の意であるから、どこか身分制度時代の色が濃い。しかし「マナー」とは作法、やり方だけであって精神面は浅いと思う。
   要するに、言いたいことはカタカナ語は日本語ではないから、歴史・文化を軽くしてしまうから気を付けたいということである。

☆御成(オナリ)
  さて、今回は日本の礼儀について考えてみたい。われわれはソバリエだから、とくに料理の席の礼儀関連をというわけである。
  熊倉功夫(和食国民文化会議 名誉会長)は『日本料理文化史』の中で、日本における食の様式の基本型は「本膳料理」から始まったと述べ、例として1561年、足利13代将軍義輝が三好義長邸へ御成のときの《七の膳》を紹介している。
  御成というのは君臣の契の証から始まった。要するに主君が家臣を信頼している証として家臣の邸を訪問するのである。荒くれ武士の舘に少人数で乗り込むわけであるから、危険もある。実際、1441年に赤松満祐が足利6代将軍義教を自邸に招いての宴会を利用して、暗殺した事件もある。しかし御成を無事やり遂げれば、深い主従関係の絆が生まれる。これが武士社会であった。
 義輝将軍御成の三好邸における《七の膳》の献立は、『群書類従』などの史料に記録されているのでここでは省くが、要は宴会は夜を徹して行われ、翌朝10時に将軍の帰還でやっと終了になるそうだ。
  その雰囲気は、私ち同年配以上の人はお分かりだろう。上司が「飲め」と言えば飲まなくてはいけない。上司が「もう寝よう」と言うまで、宴会は終わらない。仲間どうしはマナーなしの無礼講なのである。
  先に「食の様式」と言ったが、「様式」とは一の膳から七の膳の形であって、食べる側の礼儀はない。せいぜい食べる順番は、飯・汁・菜を繰り返すと決められているていど。それより大事なことは「席次」である。そして上司の言うことに従うのが礼儀である、というと現代人はおかしいと言うだろうが、時代は封建時代のであることを忘れてはいけない。
 そのことを橋本治風雅の虎の巻の中の日本料理の巻」で指摘している。すなわち「日本料理の根本にあるものは〝接待〟である」と。つまり家臣が主君を接待する御成では、客は封建時代の主君であるから、食べ方は「おれの勝手でいいだろう」ということになる。だから日本では食のマナーは発展しなかったというわけである

(注1)「本膳料理」は日本の正式宴会料理の最初であるといわれている。
(2)足利義輝はNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』でお馴染みの将軍である。

☆茶道
  この話をある先輩に申上げたら、「とんでもない、うちの祖父は食事のときの行儀にうるさかった。第一、日本には茶道とか、小笠原流とかあるじゃないか」とおっしゃった。
 しかし、失礼だが家の主のうるささは正式の礼儀ではない。封建時代の名残で主人のいうことを守ることによって家族の統制をとるところに目的がある。だから、家庭によって、地域によってうるささの中身はちがってくる。
  また小笠原流というのは元は武芸であって礼儀はそれに付随した作法である。もともとは門外不出だったそれを昭和になって小笠原忠統という松本藩・小倉藩主の子孫の方が礼儀の小笠原流として立ち上げたものであり、言ってみれば新しい。
  実は50年前、私は小笠原忠統先生とご縁があって、霞倶楽部といって昔の貴族が出入りする会館で、何回か食事を共にしたことがあった。頂いた名刺には「伯爵」とあったから驚いたものだったが、だいたいそんな話を聞いていた。
  残る茶道であるが、確かに作法は厳格だ。しかし「茶道」の千家流家元ができたのは江戸中期の少し前ごろ。関係する「懐石料理」という言葉が一般的になったのも明治からだろうと先の熊倉先生はおっしゃっている。
  それでも茶道が厳粛に感じるのは、幾つかの特徴のせいであろう。
  一つは、茶道は芸術にまでなっていること。とくに岡倉天心著『茶の本』や『柳宗悦 茶道論集』を読むとそう感じるのは著者の岡倉・柳が芸術家であるからだろうか。
 二つは、茶道は修行であるということ。井口海仙の『茶道名言集』で紹介されている茶人たちを見ると、人間形成の〝修行〟の場である感がする。それは茶に禅の思想が取り入れられたからである。
  もちろんこの2点、皆様もとうにご存知であろう。では、これらのことが今の食の礼儀とどうちがうかということである。

☆〝社交〟と〝修行〟
  それを先の橋本治が指摘している。
 食のMannersの始まりは王様が臣下を宴に招いたことからだという。それは王様と同じテーブルで一緒に食べる権利が与えられたことになる。そこから〝社交〟の概念が生まれた。ところが、日本の場合は臣下が主君を接待する宴であった。主客は自分流にふるまった。そこが違うのである。
    また、礼法のかなった茶道であっても自分を高める修行の精神があった。もちろんこのこと自体は崇高なことである。ただ〝社交〟と〝修行〟では、社会参加自己研鑽という風に目的が異なる。
  話は飛躍するが、日本人はこの「道」というのが好きだ。武士道、茶道、剣道・・・。すべて禅と関わって、「道」は人間修行の鍛錬の場となった。いいことだ。ただ、最近は相撲道、棋道、〇〇道など禅と関係ないものまで「道」と称するようになった。しかし、自己研鑽主義だから、うまくいかなかったときは自己責任に帰着することが広まり、それが日本人の欠点になった。
   戦争、交通事故、特殊詐欺・・・の被害も個人の不注意で済まされる。たとえば交通事故の場合、国も道路も自動車も悪くない、運転が未熟だったせいだと皆が思う。特殊詐欺も騙された方がバカだということになる。だから国は無策になる。
  現代は、もうその自己責任主義では解決できないところにきている。解決するためには、みんなが〝参加〟していかなければならない。そのことに気づくべきだ。
  それがマナーや礼儀と何の関係があるのかとお思いだろうが、視点は将来から現在を観た方がいい。これからは、もはや今までのように自己主義だけでは問題を解決できなくなってきている。社会全般から、皆が参加して解決に向かわなければならない。そういうつもりで、食の世界も社会参加として考えるべきだと思う。そうすれば、カタカナのマナーも日本文化となっていくだろうし、食から地球問題も考えられるようになるだろう。

『世界蕎麦文学全集』
29.熊倉功夫日本料理文化史
30.橋本治風雅の虎の巻

文 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる
写真 茶ノ木神社
(人形町で茶ノ木神社を見かけたとき、だいたいこの文を考えたので)