第700話 妙興寺蕎麦

     

『世界蕎麦文学全集』物語 42 

☆妙興寺蕎麦
 たいがいの人にとって蕎麦は「たかが蕎麦」、蕎麦なんてどれでも同じだろうと思っている。私も最初はそうだった。
  それでも少しずつ勉強し始め、そして伊藤汎著の『つるつる物語』と出会って、驚いた。そこで著者に会いたくなって、伊藤先生が営む「寺方蕎麦 長浦」を探し、向島を訪れた。
  もちろん蕎麦も頂いた、すると蕎麦汁は鰹出汁ではなく、大豆だった。また驚いた。長浦は「妙興寺蕎麦」とも名乗っていたが、この大豆の出汁こそが妙興寺伝来というのである。汎先生の父上が妙興寺でおきた火事の際、避難させた書類の中から「妙興寺蕎麦」の書付を見つけた。そこに寺方蕎麦の奥義が記してあったという。父上は当時、教師であった。しかし熱心に研究されて妙興寺蕎麦を再現され、とうとう寺方蕎麦屋を開業された。汎先生はその二代目である。
  とにかくそんなわけで、蕎麦つゆの出汁には大豆と鰹があることを知った。
  これは大きかった。それからの私は「砂場蕎麦」「更科蕎麦」「藪蕎麦」も鰹出汁という同じ江戸仲間じゃないかと考えるようになったからである。そこで今まで知っていた蕎麦を【寺方蕎麦】と【江戸蕎麦】という風に分けてみるようになった。
  そしてこの分類によって、【江戸蕎麦】とは何かということがはっきりしてきたので、江戸ソバリエ認定事業を立ち上げることができた
  当時、「砂場蕎麦」「更科蕎麦」「藪蕎麦」と言う人はいたが、それをまとめて「江戸蕎麦」とよぶ人はいなかったのである。
  しかし一度分けてみると、いろいろ見えてくるものがあった。
 すなわち、歴史的には【寺方蕎麦】から【江戸蕎麦】の変化、地理的には【江戸蕎麦】と【郷土蕎麦】があること、業態的には【蕎麦屋の蕎麦】と【家庭蕎麦】があると分類して見るようになった。
  言い換えると、日本の蕎麦は【江戸蕎麦】=【蕎麦屋の蕎麦】と、【家庭蕎麦】⇒【郷土蕎麦】とがあり、そのどちらもが【寺方蕎麦】から始まっているということだった。
 それじゃあ、何としてでも【寺方蕎麦=妙興寺蕎麦】の「妙興寺」へ行ってみなければと思った。
 
☆妙興寺と足利幕府
  NHKの前回の大河ドラマ『麒麟が来る』は新解釈が好評だった。何が新解釈かというと、ドラマでは信長の【成就×狂気】ぶりが描かれていた。つまり信長と光秀は、信長が【成就】を目指してるときは良かったが、信長の【狂気】がそれを上回るようになったとき、両者の関係が破綻したというわけである。そこに正親町天皇と豊臣秀吉の狡猾さと、細川氏の裏切りが絡み合っていた。秀吉と細川氏の件は今までも指摘されていたが、正親町天皇の狡猾さは初めてであった。見ようによっては、信長も光秀も天皇に操られていたということになるのであった。
 その信長と並んで強権将軍だったとされるのが、足利6代将軍義教(1394~1441)である。たとえば義教の生涯を書いた小説『魔将軍』などを読んでも、九州や関東の平定を将軍就任後わずか10年で成しえたほどである。だがその性急さゆえに臣下の赤松満祐によって暗殺された。だから義教がもう少し存命だったら足利幕府はもっと強くなっていただろうと多くの歴史家が述べている。
  その足利義教と愛知県一宮市の妙興寺は縁がある。
  妙興寺の開山は滅宗宗興、1348年に古代廃寺跡地に創建したという。1364年には足利2代将軍義詮から五山に列する待遇を受け、以来3代将軍義満はむろんのこと10代義植まで手厚く保護された尾張随一の巨刹である。
 私は妙興寺を訪れた。2003年だつた。寺は広大で鬱蒼とした樹林のなかにあった。大きな佛殿の入口を見上げると、将軍義教の筆だという「妙興報恩禅寺」の額が掛かっていた。義教が1432年の「富士遊覧」の途上に立寄ったとき書いたものらしい。「富士遊覧」というと優雅なようだが、今でいう一種の軍事パレードである。隙あらば京の足利氏に替わってやろうと敵意をもつ鎌倉足利氏を威圧するために義教は、「富士遊覧」の名目で、20キロも続く軍隊を率いて駿河まで出向いた。20キロというと、現代の鉄道でいえば東京駅から川崎駅をなお過ぎた辺りまでの長さである。これだけ兵隊を行列させた義教将軍の権力の大きさはいかばかりだろうか。
  ところで、妙興寺には足利義教像(瑞渓周鳳賛・足利義政花押)という画がある。絵は74.8×38.8cm、義教が上畳に直垂を着た身体を正面に向け、侍烏帽子を被った顔をやや右向きにして足先を交差させて胡坐している。腰に小太刀を差し、右手に扇を持ち、左手は膝の上で軽く握っている。顔は都人の特徴が出ていて、細長い輪郭をした顔面に、真横に引いた細い眉、上下の瞼の線を長く引いた切れ長の目、鼻筋の通った形のいい鼻、口元は髭を蓄えている。 
  この像は、当時の住持古伯真稽が、将軍義教の供養に、来寺記念と寺の荘園安堵のために作成させたものであるが、花田清輝(『画人伝』)によると、絵は最初に忠阿弥という絵師が画いたが、あまりにも生々しかったので、将軍義政はこれを避け、再度芸阿弥という宮廷画家に描き直させものだと推定している。
  その絵に瑞渓周鳳(1392~1473)が「義教が富士遊覧」の途上に立寄った」旨の賛を書き、義政が花押を捺した。周鳳は、義教に信頼され1440年に相国寺第50世住持となり、続く将軍義政にも重用された人物であった。
 この足利義教像は日本の肖像画のなかで傑作だといわれている。
  20キロも兵隊を行進させたという将軍を画いた一枚の絵から、妙興寺と足利幕府の濃厚な交流、それゆえに相国寺麺文化が妙興寺という尾張の寺社に及んでいたことが、うかがえるというものである。
  長浦の寺方蕎麦を味わうときは、こんな想像もしてみよう。

『世界蕎麦文学全集』
81.足利義教像
82.伊藤汎『つるつる物語』
*「義教公土田村に富士御覧の図」(『尾張名所図会』)
*花田清輝『画人伝』
*岡田秀文『魔将軍』

文:江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる
写真:半生麺の「妙興寺蕎麦」