第762話 新・美味論

      2021/12/26  

~もう一つの和食論へ~

 江戸ソバリエの北川さんから「お蕎麦の食べ比べ会」に誘われた。
   目的は蕎麦の実の規格内と規格外の比較検討、対象蕎麦粉は4種、方法として4種ともに打ち手は同じ人、釜前も4種同じ人、つゆ作りは北川さん、食味テスト者はソバリエ9名(北川、奥平、坂本、小林、一ノ瀬、鈴木、糟谷、長友、ほし)。
 そもそもが食べ物の美味しさというのは個人差があって一概に結論は出せない。だから審査員数が少なければ個人差の影響が強く出るので、審査員を多くして評価の凹凸を平均化した方がいい。そういう意味では今日の4種9名は適数だと思う。また打ち手、釜前が同じ人というのも適切だろう。ただし、この食べ比べは某所の依頼によるものだから、その結果の公開は控えたい。

  ところで、私は武蔵の国そば打ち名人戦(食味テストもあり)や、江戸ソバリエの舌学ノート、あるいは今日の分野と少し異なるかもしれないが江戸ソバリエ・ルシックにおける食べ方コンテストなどの審査に関わっていることから、食味テストの重要性、難しさ、楽しさなどを常々感じており、また 日常でも、蕎麦を食べているときにいろんな評価の言葉を耳にすることが多い。だから、何かしらの蕎麦の美味しさの統一した尺度がないものかと模索しているところであるので、これを機会にそのための雑感を述べてみたいと思う。

 その前に学術の世界をちょっと覗いてみると、2021年のノーベル賞は、「温度と触覚の受容体の発見」により、デービッド・ジュリアス博士とアーデム・パタプティアン博士に贈られた。またこれまでも聴覚においてはベケシー(1961年)が、視覚ではヒューベル(1981年)が、嗅覚においてはアクセルとバック(2004年)が受賞しているので、人間の五感のうちの聴・視・嗅・触覚が研究されて成果が出たことになり、残るは味覚のみということになる。それだけ味覚論は確立していないとみていいだろう。

 そのためか美味しさの表現とか、美味学というのはアリストテレスや孔子の考え方を基本としたものからあまり変化はない。
 すなわち、四重円があって基本味を中心として、
Ⅰ-ⅰ.基本五味(酸・塩・甘・苦・旨味)、Ⅰ-ⅱ.辛味・渋味、
Ⅱ.臭覚(香り)、
Ⅲ.触覚(温度など)・視覚(色形光沢など)・聴覚(音)、
Ⅳ.場所・心身・経験・文化・情報など
があると説明されている。
 ただし当初は旨味が入ってなかったが、現在は旨味が世界的に認められて基本五味となった。また多くの人が指摘しているが、この図式だと天麩羅蕎麦やステーキなどの油脂料理の美味しさが表現できない。つまり第三(Ⅰ-ⅲ)の味覚として油脂味を加えたいということである。
 たとえば、クリスマスには家庭のテーブルにケーキがあるだろう。そのケーキを美味学にしたがって表現するとしたら、Ⅰ-ⅰケーキ自体の甘味Ⅰ-ⅲクリームの油脂味、Ⅱクリームや苺の香り、Ⅲ苺の赤い色、スポンジの黄色、クリームの白や光沢、そしてスポンジやクリームの柔らかい触感、Ⅳあとは子供のころの思い出などが加味されて「美味しい」と言うだろう。しかしながら、この論にしたがって総合判断して美味しさを認識したつもりであるが、どうしてもケーキの美味しさの中心は甘味ということになる。

 では、も少し日にちが過ぎた大晦日の年越蕎麦だとどうなる。とくに江戸蕎麦は、喉越し、あるいは香りが第一だと言う。ここ10~15年十割蕎麦が出てきてからは蕎麦の味が注視されるようになったが、それでも基本は喉越し、腰である。参加されていた小林社長も言われていたが、「蕎麦は、軟らかからず硬からず(松尾芭蕉)」。茹でが失敗した蕎麦は日本人は食べたくない。漱石の弟子である内田百閒は『贋作吾輩は猫である』のなかで「麺類の味は要するに触覚だな」と言っているが、まさにそのとおり。となると、麺類とくに江戸蕎麦は、他の食べ物と違った美味学を用意しなければならない、と私は講座のときに話している。
 もしケーキのように基本味が第一というなら、蕎麦よりつゆの味が第一となる。それでいいのか。
  その蕎麦つゆは、日本人なら〝旨味〟そして〝切れ〟と〝酷〟があると感じている。しかし〝切れ〟と〝酷〟とは何なのか。もちろん臭覚、触覚、視覚、聴覚ではない。
  〝切れ〟というのは日本刀が好きだった私から見れば、語源は日本刀の〝切れ味〟だと考える。そこから味覚へ発展した。私がよく引用している作家の大岡玲先生も日本刀由来を指摘されているが、さらには雑味をとことん排除した清酒の形容だと言われる。とすると蕎麦つゆで思い当たるのが、本枯節でとる出汁である。黴付き鰹節を使ったとき雑味がなくてスッキリした味になることを発見して「これだ」と感じたのは日本文化の日本刀や清酒の〝切れ味〟があったからであろう。
  それから〝酷〟であるが、これについては過日NHKの『ガッテン』の「ポテトサラダ」の番組でうまい説明をしていた。
  つまり、ポテトサラダ(マヨ+ジャガ)は「〝酷〟があるから美味しい」と分析していた。その〝酷〟は、味覚センサー(江戸ソバリエ講師)の分析によれば、基本味(塩・甘・酸・旨味)の面積が広いことであるという。
 蕎麦つゆでいえば、〝出汁の旨味と、返しの塩・甘・酸味が創っている酷があるから美味しいということになる。
 だから私は、この〝切れ〟や〝酷〟は、Ⅰ-ⅰ(五味)、Ⅰ-ⅱ(辛・渋味)、Ⅰ-ⅲ(油脂味)に続く、第四(Ⅰ-ⅳ)の味覚であると折々に申上げている。
  しかし蕎麦から見れば、まだ欠落している大事な味がある。それは新蕎麦を代表とする〝旬〟の味である。
 この〝旬〟は新鮮なあま味と感じるから確かに味覚だろう。
   だから、私は一層のこと切れ、酷、旬を第四(Ⅰ-ⅳ)の【和の味】としたらどうだろうかと考える。
 まとめてみよう。ここに美味しい蕎麦と美味しいつゆがある。その美味しさの要素は、蕎麦の触覚(喉越し、腰など)と味覚(旬)と、つゆの味覚(旨味、切れ、酷)である。
 これが私たちが味覚する「蕎麦そのものも美味しいが、つゆを付ければなお美味しい」ということである。言い換えれば、蕎麦とつゆは互を必要(和)とする夫婦みたいな食べ物だということになる。
   何だ!言ってしまえば当然のことではないかということになるが、なぜこのように当たり前のようなことになるのかというと、実はこれが和食の美味しさの公式だからである。たとえば、飯+味噌汁もしかり。飯は自分に塩味がないから味噌汁を必要とする。ご飯そのものも美味しいが味噌汁があればなお美味しいという和の関係、これが和食である 。そうすると、美味の新構造としては、各々の項目が独立していて、その組合わせの順番で美味しさを認識すると考えた方がいい。

Ⅰ-ⅰ.基本五味(酸・塩・甘・苦・旨味)、Ⅰ-ⅱ.辛味・渋味、Ⅰ-ⅲ.油脂味、Ⅰ-ⅳ.和の味、
Ⅱ.臭覚(香り)、
Ⅲ.触覚(温度、歯触り(腰)、喉越しなど)、
Ⅳ.視覚(色、形、光沢など)、
Ⅴ.聴覚(音)、
Ⅵ.環境(心身、場所、人数、経験、文化、情報など)

 さて、われわれは蕎麦吟味の後、蕎麦湯を頂いた。ご承知のとおりほっとする和みの旨さである。コーヒーでいえば、ボディ感に似た後味、これはどの範疇に入るのだろうか?


*ここでは論が複雑になるので蕎麦の香りや温度や形や音などについては述べていない。
*【和の味】の提唱については、その理由が別にあるが、それはまたの機会に譲る。
*本来なら旨味も和の味だが、現在は世界の旨味となっていることは先述の通り。
*甘味成分のあるものは「甘味」と表記、それがなくあまく感じるものを「あま味」とし、また旨味成分のあるものは「旨味」と表記、それがなくうまく感じるものを「うま味」としている。

          写真:蕎麦四種吟味、第8回武蔵の国のそば打ち名人戦表彰式
             〔江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる〕