第885話 五節供と正月行事を考える

     

 今日は太陽暦2月19日(月暦では一月二十九日)、朝から小雨が降っていた。
  和食文化国民会議の新春講演会が、「今日は二十四節気の雨水になりますね」という言葉から始まった。主題は「五節供と正月行事」。講師は東洋大学の露久保美夏先生学習院大学の宇都宮由佳先生。
 ともに、アンケートに見る、伝統行事への理解不足を検討するというのが、今日の講演会の目的だった。どちらも和食の根幹をなす大事な行事だから、こういう場を設けてほしいと願っていたから、参加した。

☆五節供
 アンケートでは、五節供のについて知らない人が増えてきたという。ただ人日、上巳、端午、重陽という言葉は聞き慣れないが、3月3日の雛祭り、5月5日の子どもの日、7月7日の七夕祭りなら分かるという回答があったらしい。
 それはそうだろう。そうした言葉の難解さが、伝統行事への関心の薄さの原因の一つであると思う。
 「人日とは、旧暦一月一日は鶏の日、二日は犬の日、三日は羊の日、四日は猪の日、五日は牛の日、六日は馬の日、七日が人の日、八日は穀の日となっているらしいが、そう言われてもピンとこないが、ともかく七日の人の日には人間を大事にしようということから「人日ムという節供が始まった。上巳とは、旧暦三月上旬の巳の日。端午とは、旧暦五月の最初の午の日。重陽とは、奇数は陽の数、とくに九は陽数の極である。それが重なっているか重陽という」と説明されても、もっと分からなくなる。
 もう一つややこしさの原因がある。それが太陽暦と月暦の関係である。
 たとえば「人日」は、元々は中国の慣習だから、中国の月暦で一月七日に行っていた。それを日本はそのまま受け入れた。
 ところが、明治になって日本が太陽暦に切り替えたとき、「人日」を太陽暦の1月28日にすればよかったが、太陽暦の1月7日に決めた。季節感より、数字の1と7の意味が重要と考えたのだろうか。そのために季節感がずれた節供になってしまった。たとえば、私たちは春は3, 4, 5月だと思っている。だけどテレビ番組の天気予報では、きまって2月4日(一月十四日)になると「暦のうえでは春です」と枕詞のように繰り返す。だからといって、それに対して国民は何も言わない。それが日本人だと某首相が言っていた。
 というわけで、五節供を今まで述べたことで整理してみたが、書いているだけで頭が混乱してくる。ただし月暦は2023年を使用した。
 *人日(または七草の節供):太陽暦1月7日(元々は中国の月暦の一月七日、その日は太陽暦の1月28日) 
  ⇒ 七草粥を食す
 *上巳の節供(または桃の節供):太陽暦3月3日(元々は中国の月暦の三月三日、その日は太陽暦の4月22日) 
  ⇒ ちらし寿司、蛤の吸い物、白酒、菱餅を飲食する。
 *端午の節供(または菖蒲の節供):太陽暦5月5日(元々は中国の月暦の五月五日、その日は太陽暦の6月22日)
  ⇒ 柏餅、粽を食する。
 *七夕:太陽暦7月7日(元々は中国の月暦の七月七日、その日は太陽暦の8月22日)
  ⇒ 素麺を食する。
 *重陽の節供(または菊の節供):太陽暦9月9日(元々は中国の月暦の九月九日、その日は太陽暦の10月23日)
  ⇒ 栗ご飯、菊酒を飲食する。

 当会は和食文化の会であるから、⇒の箇所に記した行事食が大事である。ただそれらの行事食について詳しくないから、一月七日は七草粥を食べますと言われれば、一も二もなく肯いてしまう。しかし麺のことになると、ソバリエとしては、ン!と思う箇所がある。たとえば、七夕の素麺である。元々索餅を食していたことから素麺になったとのことだったが、麦縄なら分かるが、索餅は中国では一種のパンみたいなものなのに、それがなぜ素麺に?との疑問がわく。しかし古代のことだから、正解はなかなか難しい。
 ❶ここで大事なことを申上げたい。和食が旬を大切にするというなら、行事食は行事の時季こそが最優先すべきことだと思う。

☆大晦日、正月
 アンケートでは、正月準備としての大掃除、年越蕎麦、年賀状。正月行事食としての餅、雑煮、お節は、まだまだ継続されているという。
 ソバリエとしては、伝統食「年越蕎麦」の継続を願って、毎年「私の年越蕎麦、わが家の年越蕎麦」を募集しているところであるから、世間がそれを継続されていることにほっとする。
 そこで「年越蕎麦」について考えてみるが、蕎麦は長いから縁起がよいとされて「年越蕎麦」へと繋がったのであるが、麺は素麺にしろ饂飩にしろ長いのに、なぜ蕎麦が縁起がよいとされたかは不明である。が、おそらく蕎麦の歴史を見ると、古いころの蕎麦は太くて短かったが、江戸に入ってきて江戸蕎麦となったときつなぎが工夫され二八蕎麦が生まれ、蕎麦の長さが八寸とされたところから、古より長くなったことで縁起物となり、年越蕎麦、引越蕎麦として人気になったと考えられる。では、なぜ江戸蕎麦が二八になったかというと、江戸の蕎麦職人たちが商い蕎麦として腕を競ったうえで誕生したのである。一方の地方の蕎麦は家庭て打った昔風の短くて太い蕎麦だったから、地方ではつい先ごろまで短く太い蕎麦は、すぐ切れるとか、貧しい食べ物の地位にしかなかったが、江戸の蕎麦屋の蕎麦は粋な食べ物との位置になったのだといえる。この江戸蕎麦誕生を小生は蕎麦の〝日本化〟と称している。
 ❷先に、上巳、端午は耳慣れないが、雛祭り、子どもの日は分かるという回答があったことを紹介したが、これも日本化の成果であろうから、行事の継続を願う前に文化の日本化を図ることが重要であると思う。
 それに加えて年越蕎麦、雛祭り、子どもの日に継続性が見られるとすれば、そこに商売(蕎麦店、菓子店、人形店)が関与していることが無視できない。目を移せば、年末のデパートのお節料理、節分の恵方巻、バレンタインデーのチョコレート、クリスマスのケーキも然りである。
 ❸残念ながら、共同体の力が期待できない今日、行事食は企業の力を借りることも重要であると思う。
 ともあれ、和食の根幹をなす大事な行事というものを、拙いながらも少しだけ考える機会をいただいたことに感謝する次第である。

追記:雅な物を見せてもらった。話は聞いていたけど実物を見るのは初めてであった。
 「御被綿(着せ綿)」といって、重陽の節句の前夜の九月八日に、菊の花を高価な真綿で覆い、菊の露と上品な菊の香りを移すらしい。露に湿ったその真綿を肌にあてて清めると、若返り、寿命が千年延びると言われていたとのこと。
 紫式部も歌っている。「菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに千代はゆづらむ」

江戸ソバリエ協会理事長
農水省 和食文化継承リーダー
ほし☆ひかる