第889話 雑司ヶ谷の蕎麦

     


 雑司ヶ谷戸は何かと縁がある所である。その初めは雑司ヶ谷の「和邑」で、落語家の三遊亭圓窓師匠、タレントのタニエル・カールさんたちと座談会を行った(2007年)。2回目は「和邑」さんをあらためて取材し、『蕎麦春秋』誌の「連載:暖簾巡り」に掲載した(2021年)。3回目としての今日は、としま未来文化財団のお世話で、雑司が谷地域文化創造館にて蕎麦のお話をすることになった(2023年)。

 さて、江戸時代の雑司ヶ谷というのは、郊外のちょっとした行楽の地であったようだ。その要所はやはり法明寺の寺中の一つである雑司ヶ谷鬼子母神であった。
 門前や界隈には料理屋や蕎麦屋や茶屋が並んでいた。
 広重の『富士三十六景』-「雑司かや不二見茶やには「富士見茶屋」が描かれているし、同じく広重の『江戸高名会亭-雑司ケ谷之図」には即席御料理「茗荷屋」が描いてある。即席御料理というのは、注文に応じてすぐ料理を出す料理屋のことだが、蕎麦好きだった隠居大名柳沢信鴻(柳沢吉保の孫)は、駒込の屋敷(現:六義園)から雑司ヶ谷参詣へ出かけて行き、毎回のように「茗荷屋」に立ち寄って蕎麦などを食べていた。彼の『宴遊日記』(1773~1785)によると、「茗荷屋」に11回寄り、《打懸蕎麦》1回、《蕎麦》8回、《卓袱蕎麦》1回、あと《茶飯》などを食べている。このうちの《卓袱蕎麦》には鴨・茄子・牛蒡・芹・慈姑が載っていたことまで『日記』に記している。これを見た、ある蕎麦の専門家は「普通は卓袱に鴨は入れないが、さすがは殿様、贅沢に鴨入りを・・・」と述べているが、私の見方はちがう。
 というのは、雑司ヶ谷といえば、鷹狩が好きだった八代将軍吉宗が、千駄木(文京区)とともにこの雑司ヶ谷に九千坪の御鷹部屋を設けていたことが知られている。現在でいえば雑司ヶ谷霊園の北方の都電沿いである。そこに役人詰所 1部屋、 御鷹部屋 8部屋、物置 4部屋、犬部屋、御犬役所があり、鷹匠頭(一千石) 1名、鷹匠組頭(二五十俵高) 2名、鷹匠(百俵高) 16名、鷹匠見習(五十俵高) 6名、鷹匠同心(三十俵二人扶持) 50名、犬牽、餌差など70~80名が勤めていた。跡地には当時からあったという松の大木が聳えている。また番神通りの北の端れには御役屋敷があった。その屋敷から鷹匠らは番神通りを部屋へ通っていたのだろうが、現在は番神通りの影すらもないが、昔は三十神が祀られ、毎日変わり番こに民を護っていたのだろう。
 なぜ鷹匠の話をここに入れたかというと、実は《鴨なん》などの食材である鴨の流通は御鷹なくしてはなかったのである。というのも鷹は1羽で、1日鳩3羽、雀10羽を食べる。つまり鷹計100羽の餌として、1日鳩300羽、雀1000羽を御鷹の餌として、係(餌刺)は捕獲しなければならない。それが1年となると大量の餌ではあるが、ついでにその他の山鳥・水鳥を捕獲し、適宜日本橋の東京ドームホテルで東国屋などの鳥問屋に売り捌いていたのである。地下鉄銀座線三越前駅で下車して地下通路を歩いていると『熙代勝覧』が飾ってあるのに気付くが、絵には鷹匠や餌刺が日本橋を歩いている姿が見られる。また俳人一茶も東国屋の店先に3羽の鴨が首を束ねられてぶら下がっているのを目にしているようである。したがって雑司ヶ谷は鴨肉がわりあい自由に手に入ったのではないだろうか。というわけで《鴨入り卓袱蕎麦》は雑司ヶ谷ならではのことというのが私の見方である。
 もうひとつ、雑司ヶ谷ならではの名物蕎麦の話として、「雑司ヶ谷藪」つまり藪発祥の地は雑司ヶ谷だったという説がある。
 史料によると、鬼子母神堂から東方の藪の中にあったから、通称「」とか、打ち手が爺だったから「爺が蕎麦」と呼ばれていたらしい。別の資料によれば御嶽山清龍院の周辺は藪だったというが、清龍院は鬼子母神堂から見れば東方に位置するから、この辺りでまちがいないであろう。しかもここは大塚護国寺から鬼子母神に至る鬼子母神道沿いである。いわば名所散策道筋に「藪蕎麦」があったわけである。店の主は戸張惣次(?~1825)だといわれている。本職は金工師、銘は「富久」といって、名流とされている京橋の後藤宗家の、13代後藤延乗光孝(1782~84)の高弟であった。
 その富久が酒井抱一(1761~1829)が得意としていた朝顔の絵を添えた句を残している。
  や くりから龍の  やさすがた  富久
 句碑は威光山法明寺に建てられているが、くりから龍の蕎麦切(朝顔)の蔓に置き換えたところに、富久と抱一の交流がうかがえる。
 また、坂井抱一とも親交のあった大田南畝も喜惣次へ狂歌を贈っている。
  見渡せば 麦の青葉に 藪の蕎麦 狐狸も ここに喜惣次  南畝
 そんなところから、雑司ヶ谷藪には富久と交流のある文人墨客の客が絶えなかったというが、それでなくとも蕎麦にはこうした知識人を惹きつけるところがあるようだ。
 面白いことに鬼子母神へ行ってみると、江戸時代の「茗荷屋」辺りに、現在「茗荷茶屋」という店があり、蕎麦も供している。時代をスリップして江戸時代の雑司ヶ谷へ行ったような気分になれるから、朝顔の咲く時季にもう一度訪れてみたい。  

ほし☆ひかる
江戸ソバリエ協会理事長
農水省 和食文化継承リーダー