☆ ほし ひかる ☆ 昭和42年 中央大学卒後、製薬会社に入社、営業、営業企画、広報業務、ならびに関連会社の代表取締役などを務める。平成15年 「江戸ソバリエ認定委員会」を仲間と共に立ち上げる。平成17年 『至福の蕎麦屋』 (ブックマン社) を江戸ソバリエの仲間と共に発刊する。平成17年 九品院(練馬区)において「蕎麦喰地蔵講」 を仲間と共に立ち上げる。平成19年 「第40回サンフランシスコさくら祭り」にて江戸ソバリエの仲間と共に蕎麦打ちを披露して感謝状を受ける。平成20年1月 韓国放送公社KBSテレビの李プロデューサーへ、フード・ドキュメンタリー「ヌードル・ロード」について取材し (http://www.gtf.tv)、反響をよぶ。平成20年5月 神田明神(千代田区)にて「江戸流蕎麦打ち」を御奉納し、話題となる。現 在 : 短編小説「蕎麦夜噺」(日本そば新聞)、短編小説「桜咲くころ さくら切り」(「BAAB」誌)、エッセイ「蕎麦談義」(http://www.fv1.jp)などを連載中。街案内「江戸東京蕎麦探訪」(http://www.gtf.tv)、インタビュー「この人に聞く」(http://www.fv1.jp)などに出演中。 |
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ほしひかる氏 | ||
【7月号】
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小学校のときの昼食は給食だったが、中学生になると弁当になった。当時は弁当を持って行ける身分になったことが、少し大人になったような気がしたものだった。しかし、いま思うと、それを毎日作る母親の方はさぞかし大変だったろう。弁当のおかずはたいてい薄味で煮た竹輪か、蒲鉾か、玉子焼きが多かった。たまに、その煮汁が漏れることがあって、鞄から取り出すと弁当風呂敷が醤油臭くなっていることもあった。それでも弁当箱の蓋を開けるのは、楽しみだった。そしておかずの蒲鉾を口にしたときの、あのプリッとした独特の歯応えは嬉しい触感だった。だから、遠足や運動会の弁当のおかずには必ず蒲鉾が入っていた。今でも、蒲鉾を見たり、食べたりすると、あのころの食味が思い出されるが、子供のころの食事というものは一生の想い出として大きな比重があると思う。
その教室は「鈴廣のかまぼこ博物館」だった。室に入る前に、頭に被り物をして、手を丁寧に洗う。
①~⑤はすでに準備ができていて、体験コースの作業は⑥だけであるが、これが難しかった。この板の付け方次第で弾力感がちがってくるという。それには身の中に気泡や空気を入れないようにしなければならない。よく、蒲鉾職人さんがデモンストレーションなどで格好よく俎に叩き付けているのを見ることがあるが、あれは格好ではなく、気泡を入れないためにやっているのであることが分かった。また、子供のころから蒲鉾の板の厚さが妙に不思議であったが、あのくらいの厚さがないと板に擂り身を付けるときにうまくいかないのではないかと思った。そのようなことを実感しながら、作業を続けているうちに、形が様にならない蒲鉾ができ上がった。あとは⑦の蒸すだけであるが、これも会社の設備でやってもらった。
ところで、この博物館には、蒲鉾の板に描いた絵がたくさん飾ってあった。十年以上前から鈴廣が作品を募集して優秀な作品だけを展示しているという。作者は子供から大人まで、参考としてプロの漫画家、画家、デサイナーによる作品も展示してあった。 〔江戸ソバリエ認定委員・(社)日本蕎麦協会理事 ほしひかる〕
参考:「鈴廣のかまぼこ博物館」蒲鉾作り体験、同館資料、鈴木たね子著『かまぼこでぐんぐん健康になる本』(BABジャパン) 写真提供:㈱小田原鈴廣
第26話は「神田祭、江戸流蕎麦打ち御奉納」を予定しております。 |
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