「六兵衛」というものを食べてみたくて、島原を訪れた。この島原という所は歴史上、天災、人災の大変事が度々起きている実に特異な所である。一度目は、戦国時代の「沖田畷の戦」であった。
北九州五国を手中にし、「肥前の熊」と恐れられていた佐賀の龍造寺隆信は島原の有馬晴信を征伐しようとした。龍造寺氏に畏怖する有馬氏は、イエズス会の武器、食糧を手に入れるためにキリシタンへ改宗したほどであったが、龍造寺氏の宣戦布告をうけるや、南九州の島津義久にも救いをもとめた。
そして1584年、ついに龍造寺軍3万と島津・有馬の連合軍6千は島原北方の沖田畷で激突した。ところが、旭日の龍造寺隆信はまさかの戦死をしてしまったのである。この戦いで龍造寺氏の兵2千は沖田畷の地で死んだ。一方の、敗ければ死、勝っても島津氏の軍門に下らなければならなかった有馬側も、相当数の兵や住民たちが犠牲を被った。
二度目は、江戸初期の「島原の乱」であった。
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人を見る眼だけは人一倍鋭かったはずの徳川家康だったが、一人だけ見誤った男がいた。天才的ゴマスリ師の松倉重政であった。家康は重政を島原藩主にした。重政は分不相応の城を築いて、実力以上の武器を蓄えようとした。さらには実力4万石の島原藩が、幕府に対して10万石の賦役を申し出たのであった。こその差額6万石を稼ぐために領民は血まで搾り取られた。続く、二代目の松倉勝家はもっとひどかった。領主としての、いや人間としての倫理感というものがまったくなかった。ヤクザか、異常者のようだったという。
1637~38年、堪らず、領民は天草四郎を担いで反乱を起こした。しかし、原城に立てこもった島原の人々4万人は幕府軍によって皆殺しにされた。
三度目は、江戸中期の「島原大変」であった。
当時の島原は、藩主松平忠恕が徳川系であったため、藩は有明公海の商権を有し、肥前、筑前、肥後の物産貿易の商港として大いに栄えていた。ところが、そのころ「東の海中が、鳴動する」とか、「島原の地は熱くて、草履では歩けない」とか、「草木が一夜にして花咲乱れる」とか、「空中に帆掛船が往来している」など、地震の前兆現象としての、異様な風説が数々流れていた。
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そして1792年、普賢岳天狗山の東面が大崩壊した。昨年の10月ごろから頻発地震が発生し、その地震動はかなり長期的に続いていたが、遂に旧暦4月1日(新暦5月21日)18時過ぎ、強震二回が生じて天狗山の大崩壊が発生したのであった。
様々な資料から概算して、崩壊発生時でマグニチュード6.0~7.0が推算されているという。同時に有明海では津波が発生し、肥後まで波及し、俗に「島原大変肥後迷惑」の大惨事となったのである。島原の死者は10,000人、近隣の津波被害を含めると、死者15,000人と云われている。そして、その後の島原半島を襲ったのは大飢饉であった。
このころである。深江村に六兵衛という名主がいた。当時の深江村は島原藩の中でも最も田畑が多い村だった。深江川を中心として水田100町歩が海岸沿いに広がり、畑地200町歩は東部の丘陵性斜面に広がっていた。しかし、それらは全てこの度の地震で壊滅した。六兵衛は名主として、飢えた村民の面倒をみなければならなかった。納屋に蔵していた薩摩芋を村人たちに施しながら、六兵衛は考えた。「この芋もこのままでは腐ってしまう。村の者の食糧を何とかできないものか」。見ると、芋の中にはカラカラに乾燥してしまったものがかなりあった。普段なら捨ててしまうところであるが、こういう飢餓状態ではそれも食べなければならなかった。六兵衛は乾燥芋も正常なものと一緒に煮て、村人たちに与えた。そのとき六兵衛の脳が閃いた。「天日に干して、食べるときに戻すようにできないか」と。こうして薩摩芋を材料とした麺、保存食ができたのであった。人々は、この薩摩芋の麺を「六兵衛」と名付けた。
「六兵衛」の作り方は、皮を剥いた薩摩芋を薄く輪切りにして天日で乾かし、粉に挽いて、捏鉢に入れ湯で混ぜて、手で練り、大きいおにぎりぐらいに握る。それを「六兵衛突き」という押出し器で、沸騰する湯に押し出して茹でるか、または蒸籠で20分ほど蒸して作る。押出し器は小麦粉以外の材を麺状にするときに使う。それらはグルテンが含まれていないため、粘り気がなく、伸びないからである。
食べるときは煮出汁(有明海産の藁苞=鯊科の魚)で食べ、紅染めの蒲鉾、玉子焼き、葱などを入れる。
材料が薩摩芋であること、麺の仕方が押し出しであること、という2点は日本では珍しい発想である。
さて、六兵衛を口にする。そして、「旨いか」と問われても、現代の、しかも他国者のわれわれには答える資格はない。悲運の島原で、これしか喰うモノがないような状況で考え出された食べ物を、現代のグルメのような基準で決めるわけにはいかないからである。敢えて、答えるとするならば、「尊い食べ物」ということは言えるであろう。
島原鉄道の駅に戻ると、哀しくも、懐かしい「島原の子守唄」が駅舎から流れていた。
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何の梨やら 何の梨やら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼の池ン久助どんの連れんこらるバイ♪
帰りにゃ 寄っちょくれんか
帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばら家じゃけんど
芋飯ゃ粟ン飯 芋飯ゃ粟ン飯
黄金飯ばよ しょうかいな
嫁御ン 紅ンナ 誰がくれた
ツバつけたら 赤ったかろ♪
参考:『ふるさとの家庭料理』(農山漁村文化協会)、石毛直道著『麺の文化史』(講談社学術文庫)
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〔江戸ソバリエ認定委員・(社)日本蕎麦協会理事 ほしひかる〕
第30話は「信玄のほうとう」を予定しています。 |