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農業写真家 高橋淳子の世界
鈴木貞夫のインターネット商人元気塾【バックナンバー】

農業写真家 高橋淳子

1956年一橋大学卒、同年現池袋パルコ入社、1976年サンチェーン代表取締役社長、


1989年ダイエーコンビニエンスシステムズ代表取締役副社長、1995年ローソン相談役、


1999年ローソン親善大使。現在ソフトブレーン・フィールド(株)特別顧問。


1992年(社)日本フランチャイズチェーン協会常任理事、副会長を歴任 。鹿児島出身

鈴木貞夫氏(すずきさだお)
1934年1月3日生

【7月号】

絆を結ぶ流通人生50年


流通人生50年の原点は学生時代にあり、学生時代の印象に残る出会いとして、1つは戦前の河合栄治郎東大教授の「学生生活」という本である。先生は権力と闘う戦闘的自由主義者。軍部に弾圧されて、戦時中は発禁になった本だ。私が大学に入ったのは52年(昭和27年)、戦後史に残るメーデー事件がった時期に、古本屋でその本を買ったわけだが、私は、その後の人生の生き方の基本のようなものを教わった。大学では経営学の藻利重孝教授のゼミに入り、経営学、経営に対する考え方や、人間関係論を教わった。卒論のテーマは「商企業利潤論」。マスコミ志望だったが、藻利先生によって商人への道を方向づけられたような感じがしている。


56年に京都の丸物百貨店の東京進出(現在の池袋パルコ)で、東京要員を募集していた。丸物百貨店専務の令嬢と面識があった関係で、入社した。丸物百貨店には8年いたが、2人の人にいろいろ教わった。1人は創業者の中林仁一郎氏。関西商法のイロハと全国制覇の野望とチャレンジ精神の薫陶を受けた。


私は労働組合の委員長もやった。23歳のときで、学生時代に理想主義を学んだり、労働法のことも多少知識があった。百貨店は労務管理は割合古く、組合もご用組合のようなものだったので、結局中林さんと会議で対峙する場面か出てくる。もう1人は東京丸物の店長になられた新藤石松氏。丸物きっての百貨店人で、東京進出の切込み隊長だった。新藤氏とも労使関係で対決し、われわれが理想論を言うと、相手は現実論を言う。現場主義の新藤氏には売場を見ることを教わった。団体交渉で対峙すると会社の経営のことがぎろんになる。数字で分析、経営的視野を学び、最後には妥結する。組合には年配者、女性も多いので、説得しなければいけない。そういう組織管理というものの経験を、25歳ぐらいで体を張ってやった。その後の人生に非常に役立った。


もう一つ、丸物時代のことで忘れられないのが、五味川純平の「孤独の賭け」という小説。これはキャバレー界が舞台で、野心的な青年がキャバレー界に入って、キャバレー王を目指すという、チャレンジと挫折の物語である。これはおもしろい生き方だと、今も印象に残っている。それで、私はぜひ独立したいと思っていたが、30歳の時にレストランとして独立する機会があり、「ボナパルド」というレストランをつくった。これはナポレオンの名前で、ボナパルド将軍時代の破竹の勢いをイメージし、夢を持って一時は4店舗を出したが、資金繰りに失敗して挫折。商売は現金主義でならないと痛感、このままでは飲み屋のおやじに終わってしまうと思い、4軒のうち3軒売って1軒残し、頑張った。38歳になっていたが、もう一度挑戦したいと思っていたとき、入ったのが、あのキャバレー「ハワイ」。


小松崎栄社長とキャバレー革命をやりたい


新聞広告で幹部募集をどんどん行い、「全国制覇 1500店を目指す」と非常に魅力的なテーマだった。小松崎栄社長から、「一緒に日本を制覇し、キャバレー革命をやりたい」と、説得された。「革命」と言われ、入ることを決めた。それが後のサンチェーンにつながることになる。1年後取締役営業推進部長として、店舗拡大を担当。出店資金調達の仕事などをして、常務取締役になった。 「ハワイ」が急成長したのはメーカーの力と納入業者の力を上手に活用したからだ。出店の時、保証金と開業準備資金をビールメーカーさんなどから借り、一定期間経ったらきちんと返す。それは私の仕事だった。小松崎氏には理念経営や、急成長の仕組みや、人材の急速育成の手法などを教わった。結局、短期間に100店から1500店まで全国に展開した、その辺の着眼という意味では、すごい人だった。しかし、「ハワイ」はフランチャイズというより、のれん分けのファミリーチェーンで、心の絆が中心のようなところがあって、契約は比較的緩かった。儲かっているときはいいが、類似商法が生まれ、競争が激化して儲からなくなると反乱が起こる。事業縮小を進めながら、脱キャバレー作戦を展開したが、なかなかうまくいかない。 何かうまい商売はないかと探していた時、取引先の酒屋さんから、「最近、イトーヨーカ堂が酒屋を回って、セブンイレブンをつくる動きがある」との情報を得た。早速小松崎氏と一緒に、当時東京に200店ぐらいあったセブンイレブンの視察に行った。「これならできる」ということで、小松崎氏は私に責任をもってやってくれるようにと言われた。私は42歳、人生これしかないと思い、メンバーを集め、必死になってセブンイレブンを研究したりして、76年に始めたのがサンチェーンだ。


ローソン1700店とサンチェーン1300店が対等合併


私はキャバレー「ハワイ」がやったユニークな“ハワイ商法“を、CVSの世界でやりたいと思い、大きな目標を掲げた。それは①5000店チェーンになる②上場企業になる③日本一のチェーンになるーの3つの目標達成を、真剣に考えた。 振返ってみると、その後80年9月にダイエーグループに参加。89年ローソンと対等合併して社名は変わったが、94年に5000店は達成した。01年には上場も実現した。日本一はまだだが、3つの挑戦目標を掲げ、走り続けてきた。


振返ると、私はサンチェーンの社長を13年間やった。店舗数では、1店舗から1300店舗までやり、チェーンポリシーとして、最初にやったのが全店24時間営業である。これが24時間市場・シングルマーケットを大きく開拓することになった。それから、加工食品、日配商品の商流、物流、情流の基本的なチェーンインフラの仕組みを構築。また弁当専用工場や、サンチェーン流通学園をつくった。それから、北海道、東北、名古屋、大阪、福岡にナショナルチェーンの核となる拠点を次々とつくり、その布石を打った。もう1つは、社員の独立性を尊重したのれん分け。社員を独立させてオーナーになってもらう。これを最初にやったのはわれわれである。その後、79年にダイエーに移り、中内功さんとの縁ができた。それから9年後の89年、ローソン1700店とサンチェーン1300店が対等合併し、ダイエーコンビニエンスシステムズとなった。私は副社長として組織統合や、企業文化の一本化を推進し、基本的に合併は成功した。中内さんは、「ローソンはサンチェーンと一緒になったおかげでよくなった」「24時間営業は鈴木さんがやった。これは文化勲章ものだ」と、言ってくれた。その後、副社長を5年やり、60歳になった。取締役相談役、それから監査役になるがその間、ローソンの教育センター東富士ゲストハウス館長を8年間務めた。ローソン東富士ゲストハウスは、5000店記念事業として富士山麓につくったもので、加盟店のオーナーさんや、従業員さんの勉強の場であり、ローソン家族の団結、人と人とのつながりを深めるローソン統合のシンボルの場でもあった。中内さんは「フランチャイズは顔の見えるビジネスでなければならない」と言っていたが、私はそれを一貫して実践。研修8年間で6500店、1万3000人が参加し、オーナーさんとの間の信頼、敬愛、友情の輪を広げることができたのではないかと思う。 01年に1部上場して三菱商事グループ入りしたが、4年前から、ローソン親善大使として「マチのホットステーション」というローソン経営理念共有化と、本部と加盟店と心の絆・信頼感を深める。この間、1700店舗を訪問し、約5000人にのぼる加盟店オーナーさんや従業員さん達と対話と激励した。したがって、CVS時代30年は社長を13年、副社長を4年、東富士館長を8年、親善大使を4年務めたことになる。


中内功氏との出会い


CVS時代30年の中で、一番の出会いはやはり中内さんとの出会いである。あの中内さんの流通に対するビジョンとロマン、情熱と気迫、着眼の鋭さ、決断力、仕事をするときの爆発力、集中力はすばらしく、また鬼と仏と童心の純粋さもあり、非常に器の大きい人だった。ペガサスクラブの渥美俊一先生からは流通革命の思想や、チェーンストア理論を通じて仕事に対する使命感、流通産業の持つ意味のようなものを教えられた。次世代に期待するものは、21世紀の商人道はいかにあるべきかを、常に考えながら努力して欲しいと思う。昨年九月、戦後日本を代表する流通の巨星中内さんは、志半ばで、無念の内に、瞑目された。寂しい限りである。生活者主権・経済民主主義の実現を目指す流通革命の理想は、未だ、この日本に達成されていない。」


21世紀という新しい時代、日本は世界で最も進んだ成熟社会を迎える中で、地球共和共生の時代を目指さなければならない。人類の平和、繁栄、仲良くしながらお互いに繁栄する商人の道を大きく考えてほしいと思い、3つのことを提言したい。


第一は、大きな志を持ってほしいことである。志、使命感、ロマン、あるいは高い精神的目標、夢を持ってもらいたい。商人として、お客様第一主義で、平和と幸福な社会の実現に貢献するビジネスである。人々に尽くし、人々を活かすための、常に前進進歩を目指す。これは志につながる考え方である。第二は、そのためには歴史に学び、歴史の創造に主体的に参加してほしいということである。主体性のある人生、歴史こそ先人の開いた知恵の宝庫である。何か新しいことをと言っても、全て昔誰かが挑戦した源があるものだ。    第三は、自らを磨き、鍛えてほしいということである。その1は自分の心をマネジメントしよう、自分の心を経営しようという考えが大事で、それに基づいて心・技・体を磨くことになる。その2は、率先垂範。戦前の山本五十六元帥の遺訓に、「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ」という言葉がある。これは人間関係論の教育の本質である。率先垂範して、リーダーシップを磨くことだと思う。その3は、継続・実践。何事も続くことが大事である。企業文化、社風とかよく言うが、私は店に行ったら「店風を磨け」とよく言う。すなわちコーポレートカルチャー、ストアカルチャーである。これは、経営者がつくる意志を持ってやって初めてできる。店は店風が商売をする。


その継続・実践は小さなこと、平凡なことから始める。それらを積み重ねてやっていくとそれが非凡になり、天才に通じる。その意味で自己を磨いていこうということである。


私はまだ元気なのでこれからもローソンのサポーターでありたいし、また広い意味で業界、FC業界のお役に立つことをやりたい。いろいろな機会を捉えて、21世紀の商人魂の種を蒔き続けたい。過去を振返ると、20代、30代、40代、それから今日まで、その時代、時代にちょうど主役業態の興隆期に当たる。戦後の百貨店の復興期、外食産業誕生期、そしてCVS興隆期に当たる。今はすでに成熟期で成長の限界と言う人もいるが、全然違う。本質を見ず、現象ばかりを見ているからだと思う。これまでの50年の人生をよい肥やしにして、これからも新しい種を蒔き続けていきたい。


座右の銘は商魂商才。商魂は商人魂ということだが、お客様に喜んでもらうという気持ちから、真剣に知恵を出そうというのが商才。新しいものを求めて、絶えず前に進みたいという気持ちか大切である。健康法は毎日1時間の勤行と、1時間ストレッチを行っている。趣味は読書、クラシック音楽の鑑賞、ゴルフ。


(日本食糧新聞2006/6/19掲載)

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