<コンビニ創業戦記> 第13回
・・・ローソンのルーツ「サンチェーン創業物語」・・・
「サンチエーンの創業」
<T・V・Bサンチエーン時代(その7)>
--全国展開スタ―ト--
第三の「サンチェ―ンの全国展開」第一陣は、関西から始まった。
T・V・Bの小松崎社長は、全国のハワイチェ―ン各社の多角化モデルとして、コンビニ事業を、速いスピ―ドで推進したいと考えていた。
そこで、東京での100店舗達成を機に、当時のT・V・B関西支社(阿部支社長)直括子会社の形で、「(株)関西サンチェ―ン」をスタ―トさせた。
T・V・Bグル―プ内で、東京と関西とを競わせることで成長のスピ―ドをあげようとの、小松崎社長の狙いもあったと思う。
その狙いは効を奏し、関西勢は東京に負けるものかと、東京での研修の時から、猛烈な競争意識を燃やしていたものだ。
後に、昭和55年(1980)ダイエ―グル―プ入りする際に、関西を吸収合併することになるが、かなりの授業料を払わされることになる。
昭和52年(1977)12月5日、関西1号店・中本店(大阪市)がオ―プンした。
以後、今津店(西宮市)、西田辺店(大阪市)と次々と開店していく。
全国展開第二陣は、東海進出である。
サンチェ―ン東海営業部(赤木部長)を開設し、昭和53年(1978)7月20日、東海1号店・山口町店(名古屋市)を開店した。
相ついで、弥富通り2丁目店、本山店、藤ヶ丘店、長塀町点、瑞穂通り3丁目店(何れも名古屋市内)を続々とオ―プンする。
第三陣は、九州への出店である。
九州営業部(内海部長)を設け、昭和53年9月30日、九州1号店・美野島店(福岡市)をオ―プン。
翌月には、春吉店、城西店、長住2丁目店(何れも福岡市内)を開店する。
第四陣は、北海道の開拓である。
北海道営業部(平木部長)として、昭和53年10月25日、北海道1号店・東屯田通り店(札幌市)についで、2号店以下、新琴似8条店、新琴似7条店、白石店(何れも札幌市内)と、次々にオ―プンしていく。
「北は北海道から南は九州まで」を合言葉に、ナショナルチェ―ンの中核拠点作りを目指すサンチェ―ン全国展開の第五陣は、東北への進出であった。
東北営業部(澤田部長)として、昭和53年10月28日、東北1号店・大町2丁目店(仙台市)、2号店・原町店を同時オ―プンする。
創業一年100店舗達成の実践経験の中で、短期間に鍛え上げられた人材群と、自分達なりに築き上げてきたシステムを活かし、全国展開の夢実現への幕を切って落としたのである。
これらの戦線拡大は一見華やかで、飛ぶ鳥を落とす無敵の勢いのように見えたが、その実、大変なマンパワ―と組織的エネルギ―を要することであった。
それは,まさに必死の総力戦であった。
私は、東海営業部、北海道営業部,九州営業部、東北営業部と、次々に新設する度に、社員総会での出陣式を執り行い、次のように熱く激励した。
「今こそサンチェ―ンが歴史的飛躍を遂げる好機である。
我々が今、特に心すべきことは、
第一に、それぞれの地域で、「人材になろう」「人材を作ろう」。
第二に、それぞれの任務で、「一石三鳥」「一人三役」「一刻千金」を心がけよう。
第三に、それぞれの店で、「地域で一番親切なお店・親切経営」に徹しよう。
諸君の獅子奮迅の活躍に期待する。」と。
そして、私自身で陣頭指揮をとり、「目標5000店の歌」を全社員で熱唱して、それぞれの地域へ送り出した。
「目標5000店の歌」
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行くぞ!行こうぞ!どんとやる!
サンチェ―ン魂 伊達じゃない
見たか 聞いたか この根性
東京 大阪 名古屋のサンチェ―ン
我らが目標 5000店! |
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そうだ! その気だ! 火の玉だ!
俺がやらなきゃ 誰がやる
サンチェ―ン同志のスクラムで
札幌 仙台 博多のサンチェ―ン
我らが目標 5000店! |
当時、ペガサスクラブ主催の「全国チェ―ンストア―経営戦略セミナ―」が、箱根小涌園で全国のチェ―ンストア経営者約500人が集まり、毎年、定期的に開催されていた。
私は勉強のために常連として、いつも熱心に参加していたが、昭和53年4月の同セミナ―で、渥美俊一先生から栄えある「100店舗達成記念表賞、」を受賞した。
その時、ダイエ―の中内社長が、「最優秀経営者賞」の表彰を受けられ、同じステ―ジに並んで居られたが、「おめでとう」と握手して下さったのが、中内さんと声を交わした最初である。
数年後に、サンチェ―ンがダイエ―グル―プ入りする事になろうとは、その時、夢にも思わなかったけれども、今でも忘れられない感動の思い出での一つである。
(以下次号) |