第522話 栖雲寺開山異聞

     

江戸ソバリエ神奈川の会が主催する蕎麦切奉納の日、蕎麦切発祥の伝説をもつ天目山棲雲寺で、今年も御朱印を頂いた。
御朱印には十字架が捺してある。それは当寺が十字架を胸にした仏画を蔵しているからだ。それをマニ像という。元代に流行った宗教らしい。
なぜ、マニ像がなぜ栖雲寺にあるのか? 分かっていない。
そもそもが、開山した業海本浄(1284~1352)のことすら、よく解っていない。
業海という人物は、1318年に入元して杭州西天目山の中峰明本に参じ、1326年に帰国した。そして1348年に甲州の天目山に棲雲寺を建立した。
業海の入元と帰国は、明叟斉哲(?~1347)と古先印元(1295~1374)と一緒だった。帰国の際は、日本へ赴く元僧の清拙正澄(1274~1339)と、中峰明本の下で修行を積んだ無隠元晦(?~1358)・復庵宗己(1280~1358)・寂室元光(1290~1367)と千岩元長(元僧)が一緒だったらしい。
彼ら同志たちの帰国後の経歴を見ると多くの名刹と関係が深い。
明叟斉哲は、真如寺(京)・恵林寺(甲斐)・正法寺(甲斐)。
*古先印元は、恵林寺(甲斐)・等持寺(山城)・天竜寺・真如寺・萬寿寺(京)・浄智寺(鎌倉)・普応寺(須賀川)・長寿寺(鎌倉)・円覚寺(鎌倉)・建長寺(鎌倉)。
無隠元晦は、顕孝寺(筑前)・聖福寺・建仁寺(京)・南禅寺。
復庵宗己は、法雲寺(常陸)。
寂室元光は、福厳寺(神戸)・往生院(近江)・東禅寺(美濃)・棲雲寺(甲州)・永源寺(東近江)。
深大寺の執事林田さんによれば、仏教伝来には(1)学問としての伝来と(2)宗教としての伝来の二つがあるという。そして伝来順としては(1)先ず学問で、(2)修行を伴う宗教はその後のことらしい。
そういう視点で上記を見直してみると、ほとんどの僧たちは臨済宗の学者だったのではないだろうかと思えてくる。それゆえに名刹において指導する立場になったのだろう。
一方の業海本浄は、甲斐と縁のある明叟斉哲・古先印元・寂室元光とは多少の交流があったにしても、独り恩師中峰明本の教えを守って宗教家に徹し、やっと22年後に杭州に似たこの地に甲州天目山を開いたのだと思われる。
業海禅師が坐して瞑想に耽っていたといわれる栖雲寺石庭の聳え立つような巨岩奇岩群を見上ぐれば、真の修行僧には蕎麦切伝説がよく似合うと確信的に思えてきた。

〔文・挿絵 ☆ エツセイスト ほしひかる
挿絵:天目山より富士山を望む