第70話 鴎外の茶目っ気蕎麦
蕎人伝 ④森鴎外
☆二人の「小倉日記」
故郷の佐賀に帰っているとき、街中で小学校時代の同級生とばったりあった。
ちょうど昼刻だったので、「昼食でも」ということになった。辺りを見ると、松川屋がある。「よかろう」というわけで、私たちは松川屋に入って、鯛の煮付けなどを食した。この店は嘉永6年創業という旅館兼食事処である。佐賀の老舗の食事処だから、当たり前のことかもしれないが、味付けはなつかしい佐賀風の甘辛さだったし、鯛もふわっとして美味しかった。そのときの幼な馴染みとの話はさて措くとして、この店は森鴎外が明治32年に投宿し、昼食をとっているところとしても知られている。
鴎外は、同年7月3日の『小倉日記』にこう書き残している。
「朝小倉を発す。沿道田圃多く植樹を栽え到処蔭をなす。午に近づきて佐賀に至る。新馬場松川屋に投宿し、午餐す。午後市役所に至り、壮丁を検するを見る。此地河水を飲む。夜熱く戸を閉さずして眠る。」
鴎外は、各年代において様ざまな形で丹念に日記を書き残している。とうぜん明治32年6月~35年3月の満三か年、小倉衛戌病院分院に勤務していたころのことも日記に書いている、はずだった。ところがその日記が行方不明になっていた。38歳~41歳という男盛りの大事な日記ということで、研究家が捜したが、見つからなかった。
そこへ田上耕作という身体不自由な男が小倉での鴎外に関心を持ち、丹念に調べ始めた。昭和15年のころだったらしい。
そんな田上の足跡をまた丹念に調べて書いたのが、松本清張の『或る「小倉日記」伝』である。小説での耕作は調べた結果をまとめ上げてから死んだ。
しかしその後、鴎外の『小倉日記』が発見され、昭和27年度岩波書店版の全集で公にされた。
鴎外も清張も、丹念に丹念に現地調査をした上で歴史小説を書くという共通点がある。清張は、この作品で芥川賞を受賞したが、調査の成果より、調べる過程にこそ冒険心のようなロマンがあることを言いたかったのであろう。そこにこの受賞は意味がある。
【二人の『小倉日記』】
☆森鴎外の『鴈』
舞台は東京に変わる。鴎外と縁ができたからというわけでもないが、上野池の端を通ったとき「蓮玉庵」で蕎麦を食べようと思った。
「蓮玉庵」といえば、鴎外に『鴈』という小説があったことを思い出す。お玉という幸せ薄い美女と学生とが思いを寄せるという青春ロマンである。読めば、題名の「鴈」、あるいは最終章あたりの「青魚のみそ煮」がキーワードとなっていることは分かるが、副題を「蓮玉庵」としても差支えないのではないかと思うほど度々「蓮玉庵」の名が出てくる。たぶん鴎外は蕎麦が好きだったのだろう。
そういえば、『護持院原の敵討』という短編の中では、「住持はその席へ蕎麦を出して、『これは手討のらん切でございます』と、茶番めいた口上を云った。」とジョークを出している。
そんなことを思ってみると、そもそも「お玉」という名前も「蓮玉庵」と引っ掛けたのではなかったろうか。と、お硬い大文豪のチョットした〝茶目っ気〟を垣間見たような気がする。
ところで、鴎外は「饅頭茶漬け」が好物であったことも有名である。理由は大の甘党の上に、ドイツ留学中に細菌を顕微鏡で見て以来、潔癖傾向になったためだという。饅頭を四つにわけてご飯の上に載せ、煮えたぎった煎茶を掛けて食べていたらしい。以前に、文京ふるさと歴史舘で複元していたが、あまり食べる気にはならない代物であった。ところが、「蓮玉庵」とお玉のことを思えば、この「饅頭茶漬け」も、鴎外はあんがい茶目っ気で食べたのではないだろうか、という気がしてきた。
参考: 『小倉日記』(ちくま文庫)、松本清張『或る「小倉日記」伝』(新潮文庫)、『護持院原の敵討』(新潮文庫)、『鴈』(籾山書店)、文京ふるさと歴史館「森鴎外展」、澤島孝夫『蕎麦の極意』(実業之日本社)、
〔蕎麦エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員 ☆ ほしひかる〕