地域社会の崩壊と消滅(1)
執筆者:編集部2
地域社会の崩壊と消滅(1)
3月11日の東日本大震災の犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、被害者の方々には心からお見舞い申し上げます。
今回の地震災害に関連して「地域社会の崩壊」が大きな話題になっている。それに触発された訳でもないが、今から65年前の徹底的な「地域社会の消滅」について簡単に触れてみよう。
日露戦争後から敗戦まで、特に昭和8年の満洲国建国以後、満洲(現中国の東北三省 + 内蒙古自治区の東部)では多くのの日本人(民間人)が生計を営んでいて、敗戦時、その人数は約166万人に達していたと推定されている。占領地、植民地に取り残された戦敗国民は祖国には帰らず、多くは現地に土着、馴化していくのが歴史上通例だったようで、日本国政府も敗戦直後はその方針だったようである。
敗戦後、満洲はソ連の占領するところとなり、内地との通信・交通の手段は殆ど絶たれてしまった。奉天(現瀋陽)の朝鮮半島出身の人たち(満洲には国籍法はなく当時は日本国籍)は終戦後比較的早い段階で(1945年の10月か11月頃だったと記憶するが確証はない)いくつかのグループに分かれて故国を目指して旅立ったと記憶しているが、出身地域如何を問わず38度線を越えての南下は難しかったのではなかろうか?
当時、中学2年だった私の住んでいた奉天市にソ連軍先遣隊が入ったのは昭和20年8月19日、翌日には本隊が進駐、所在の関東軍の武装解除が行われた。その後10月上旬には中共軍が進駐し翌年1月初めには撤退するというようなこともあったが、翌年3月上旬ソ連軍が完全撤退し国府軍(国民政府の軍隊、中央軍)が進駐してくるまでの約7ヶ月間、奉天は連続してソ連軍の完全占領下にあった。通貨もソ連軍の軍票、確か紅軍軍票と記されていた、に切り替わったが、国府軍進駐とともに東北三省流通券が発行され、紅軍軍票は紙くずとなった。ソ連軍占領下でも、国府軍の支配下になってからも、不思議なことに通貨としては旧満洲国幣が最も信用されていた。ソ連軍占領下では、ソ連側から米国あるいは日本国政府に対する在満邦人に関する情報の提供が行われることは一切なかった。そのような中で、一部の識者が奉天の国府軍秘密地下組織に接触、極秘裏に大沽港経由内地に渡航し、昭和21年3月中旬、在満邦人の窮状、並びに早急な内地引揚の実現が急務であることをGHQ(連合軍総司令部)ならびに日本国政府に訴えることに成功していた。
当時、遼東半島の大連・旅順、それに栄口の各港はソ連軍の占領下にあり、利用は不可能だった。奉天に国府軍が進駐した時点(昭和21年3月)で、奉天・山海関間の鉄道(奉山線)沿線は、渤海湾に面した葫蘆島の港湾設備も含め、ほぼ国府軍の制圧下にあり、国府軍には米軍将校団も随伴していた。当時は、当然のことながら、先進工業地帯であり穀倉でもある満洲を制するものが中国を支配すると目されていて、敗戦前から満洲地区に広く浸透していた共産勢力に比べ、華中・華南に戦力を集中し戦後は仏印にまで進出して満洲への進攻が遅れていた国府軍は、米式装備の大兵力を山東半島から満洲(葫蘆島)へ集中海上輸送して対抗しその地から共産勢力を駆逐する必要に迫られていた。この際発生する揚陸済みの空船の一部を内地への邦人輸送に活用する可能性も検討された。
このようにして、葫蘆島経由での内地への引揚げが急速に現実味を帯びるようになって瀋陽市日僑善後連絡処(旧奉天日本人居留民会)ならびに各分区(町内会のようなもの)などの下部組織による準備作業が鋭意進められた。5月初めには国府の日僑俘管理所が引揚の正式命令を発し、5月15日には第一陣、1,542名、が葫蘆島からの引揚第一船で出帆した。以後、同年12月までに葫蘆島経由で内地に引揚げた日本人の総数は約105万人とされている。 葫蘆島は、張学良が満鉄包囲線の港として大連港に対抗して建設したもので、その港を経由して多くの日本人が満洲に別れを告げることになったことは、如何にも歴史の皮肉であった。
引揚開始当初は、奥地からの避難民、病弱者、生活困窮者が優先されたが、その後は居住地域ごとに、整然と順序良く計画的な引揚が行われた。例えてみれば、今日は○○区○○町1丁目、明日は2丁目と、一区画づつ無人の街が出来ていく、学校でもクラスから毎日何人かが姿を消して行く、という具合であった。当然のことながら、持ち物は自分で携帯できる範囲に限られ、家財道具は一切置き去りにして行く。写真、地図、貴金属の類の持ち出しは一切禁止とされた。葫蘆島では、差新式の金属探知機で所持品は徹底的に検査され、ひとりでも違反者が出ると、連帯責任でそのグループ全員が足止めされる、と噂された。飼い犬、飼い猫など許されるわけもない。現金の日本円への換金はひとり1,000円に限られていた。
私は、年少だったので直接携わってはいないが、準備作業の大変さは横で見ているだけでも伝わって来た。同じ内容の名簿でも提出先ごとに異なる様式が要求されるので何種類もの名簿を何部も作成しなければならない。電灯もまともにつかない中、鉄筆でがり版刷りの原紙を何枚も切る、あるいは藁半紙にも劣るような粗悪な用紙とカーボン紙を何枚も重ねて力を入れて書いて行く。道中の食事は提供されるとはいうものの万一の際の非常食のようなものは用意しなければならない。我々の場合、中隊全員用として用意したものの一つが塩卵だった。四斗樽に食塩をたっぷり入れ熱湯で溶かす。冷めてから生卵を数十個入れる、最初は浮いていた卵が何日かして底に沈むようになったら出来上がりである。倉庫のようなところで行うのであるが、昼間は出入りのため扉は開けておく、するとこれを狙ってこそ泥がくる。その見張りをするのが中学生の役割だった。
出発の朝、隣家では、飼い犬にたっぷりとご馳走を食べさせ、多くの洗面器や鍋に水を溜め、長持ちのしそうな餌をいくつかの容器に山盛りにした上で家の扉を閉めていた。 エスという名のメス犬だった。前年の11月、僕と一緒にいたときにソ連兵の銃撃を受け左前足の付根に貫通銃創を負いながら三本足で必死に僕の後をつけてきた犬で、それ以来特によくなついてくれていたのだが、その後どのような運命をたどったのだろうか?