第135話 ツアー 「善人なおもて往生をとぐ、ましてや悪人をや」

     

ある石臼伝承を追って 

   たとえ「怪人物」といわれる人に会っても、たいていは普通の人間であることが多い。ただ熱く必死で生きたため、数奇な人生をおくったということはいえると思う。これから話す西仏坊(1162-1241)という僧も、まさに必死で生き抜いた怪人物であったのだろう。

 彼はもともと信州上田の豪族海野幸親の息子で幸長といったらしい。海野という所は今、北国街道の海野宿として観光スポットになっているが、そこの出身である幸長は京に上って文章博士となり、奈良の興福寺で出家した。

 そして歴史の舞台に登場するのが1180年である。近江の園城寺で以仁王が平家打倒を企て、興福寺に救援を求めてきたとき、西仏坊が興福寺を代表して返牒を書いたのである。「清盛入道は平家の糟糠、武家の塵芥なり」と。

 園城寺、今は静かな古刹である。以仁王はここで挙兵し、敗れたが、この人が立ちあがらなかったら、武家政権の時代は来なかった。そんな歴史上の出来事に採色をほどこしたのが、西仏坊の激烈な文句である。しかしあの清盛を「塵芥」と言ったのだから、龍の逆鱗に触れたも同然の西仏坊は東国へ脱出した。これだけでも西仏坊の名は史上に残る。 

 だというのに、次に登場したときは、何と木曾義仲(1154-84)の参謀になっていた。だが、惜しくも義仲は敗死する。西仏坊は木曾街道の宮ノ越宿にあった柏原寺を日照山徳音寺と改名し、義仲を弔った。むろん「日照」とは「朝日将軍」と呼ばれた義仲を指す。現在も、駅から木曾川を渡って真っ直ぐ行くと義仲の菩提所徳音寺はある。

 さて、われわれにとって問題なのは、「西仏坊が石臼を都から木曾に持ち込んだ」という伝承があることである。

 しかしよく考えてみれば、彼が在籍していた興福寺は、中御門家と共に「素麺座」として知られた寺であった。「座」というのは業務の独占権という意味であるが、西仏坊が石臼や麺について詳しかったことは十分うかがえる。

 彼と石臼を結ぶ事実がもうひとつある。実は近江の伊吹山麓に曲谷という石工集落がある。そこは曲谷石という花崗岩を産し、それで作った石臼を曲谷臼という。現代では花崗岩の石臼は硬すぎるともいうが、当時は貴重な資材であった。義仲が敗れたとき曲谷へ逃げてきた西仏坊が石臼の造り方を教えたのだという。そのためか、村の円楽寺には40cmぐらいの西仏坊の石像がある。だから、木曾の西仏坊伝承には信憑性がある。

 ここで、蕎麦通の皆さんには、木曾街道の須原宿にある定勝寺の、1574年の「蕎麦切」の初見文書の件を思い出していただきたい。  

木曾須原宿の定勝寺☆ほしひかる

 麺は粉がなければできない。その粉は石臼がなければできない。石と石を擂り合わせて穀物などを粉にする。人類の知恵ともいうべき石臼の、その中でも効率のいい「ロータリーカーン」とよばれる挽臼は、紀元前300年ころの小アジア、シリア、ヨルダンに見られ、中国には紀元前100年ころの漢代に伝わったらしい。 

【参考:中国承徳で見かけた石臼、20119

 それがわが国には伝わったのは明確ではないが、鎌倉時代中期とされている。東福寺を創建した聖一国師(1202-80)が宋から持ち帰ったとする説が有力だ。それを裏付けるのが、1976年に韓国新安沖で発掘された中世の沈没船である。当時の新聞報道によれば、「東福寺」と記された木簡が混じっていたから東福寺の船であるという。聖一国師の約80年後に沈んだ船であった。たくさんの白磁・青磁の他に、小型の石臼(14.5cm8分画11) 2があった。まぎれもなく、石臼も白磁・青磁と共に貴重な貿易品として輸入されていたのである。

参考:聖一国師が宋国で描いた「水磨の図」】

 聖一国師創建の東福寺☆ほしひかる絵

 そんな流れをくむ石臼を西仏坊が都から持って来たからこそ、木曾「定勝寺の蕎麦切」が可能であったというのが、この伝承のポイントであるが、さらには木曾を経て江戸に伝わったのも西仏坊の石臼のお蔭とするのも過言ではないだろう。

 【参考:中野宝仙寺の石臼塚

 さて、われらが西仏坊のその後であるが、義仲を弔った後、頼朝の追手から逃れて暫く箱根権現に滞在し、そこで彼は『箱根山縁起』を書き、次には比叡山の慈円を頼った。

 吉田兼好の『徒然草』によると、慈円の下で「行長(幸長)入道は『平家物語』を作りて生仏(西仏)という盲目の琵琶法師に教えた」というのである。

 驚きである! 一般では『平家物語』は作者不明とされているのに、兼好はそう云い切っている。

 ただし、花田清輝は著書『小説平家』の中で、「行長(幸長)と 生仏(西仏)は同一人物なのに、兼好は二人の人物にしてしまい、『平家物語』の作者を分からなくしてしまった」と憤慨している。私も、花田の言に賛同したからこそ、このエッセイを書いているのだが・・・・・・。

  『平家物語』の底辺に脈々と流れているのは〝運命〟である。だから『平家物語』は「運命の文学」ともいわれている。そうした文学指導、著作指導をしたのは師であり、あの『愚管抄』の著者である慈円であろう。その彼の『愚管抄』に脈々と流れているのは〝道理〟ということである。この二つの文学感・哲学観を目にすれば、西仏坊が『平家物語』の筆を取る際、師の慈円が哲学性・文学性なき文章は駄文であることを教え諭した場面が見えてくるのである。

  さてさて、話はまだ続く。次に、われらが西仏坊は何と法然の弟子になったのである。そうして故郷からそう遠くない、長野市篠ノ井に康楽寺を建てた。

 その康楽寺を私が訪ねたのは、春三月、李の白い花が篠ノ井の郷に咲き誇っているころだった。

 忙しい中、ご住職に相手をしていただき、「今度来るときは前もって電話しなさい。寺宝を見せてやるから」とおっしゃった。

 「寺宝って何だろう? まさか、あれのことでは!」

 実は、康楽寺二世は浄賀坊といって、1295年に本願寺三世覚如と共に『親鸞聖人伝絵』を描いた画僧である。

 西仏坊を追っていたら、『親鸞聖人伝絵』に辿り着いた・・・・・・、のである。

  それにしても、西仏坊の一生の激しさはどういうことだろうか。普通の人の五、六人分の人生をおくっている。

 そんな彼の、子か、孫にあたるのか分らないが、二世浄賀坊が『親鸞聖人伝絵』を描こうとした気持は西仏坊の数奇な人生を想えば、理解できる。おそらく、西仏坊の往生を願わずにはいられなかったのだろう。

 なにせ、「善人なおもて往生をとぐ、ましてや悪人をや」(唯圓)、そのものの人であっただろうから。

【オマケ:根付】

 

西仏坊 追っかけツアー:信州 海野宿 ⇒ 京都 観学院跡(中京区西ノ京勧学院町) ⇒ 奈良 興福寺 ⇒ 三井寺園城寺 ⇒ 木曾 宮ノ越宿 徳音寺 ⇒ 木曾 須原宿 定勝寺 ⇒ 伊吹山麓 円楽寺 ⇒ 箱根神社 ⇒ 比叡山 ⇒ 長野市 康楽寺

【三井寺園城寺、徳音寺、箱根神社

参考書:慈円『愚管抄』(岩波文庫)、『平家物語』(岩波文庫)、吉田兼好:『徒然草』(岩波文庫)、花田清輝『小説平家』(講談社文庫)、飯野山治『たそがれ法師の物語』(作品社)、『親鸞聖人伝絵』(東本願寺)、暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)、関保男「信州蕎麦史雑考」(長野第167号)、

 〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕