第157話 八月十八日「尊勝院、夢の後段」

     

蕎麦膳 》四

 

☆寛永3(1626) 818 

  江戸初期に慈性という僧がいた。彼は史上初めて江戸において蕎麦切を食べた人として蕎麦界においてはかなりの有名人である。

それによると、「161423日に、東光院(江戸)と薬樹院(近江)の僧3人で江戸の常明寺蕎麦切を食べた」と日記に書いているのである。この時の彼は京の尊勝院22世住職で、弱冠21歳。祖父は日野輝資、父日野資勝、母烏丸家の娘、叔父は相国寺鹿苑院院主。要するに血筋のいい家柄の人だった。

 その慈性が京に戻ったとき、自分の寺の数奇屋で「東條安長、花房正榮(義叔父)、内藤采女を招いて茶会を開き、後段に蕎麦切を振舞った。客人は夜8時に帰った」と同じ日記の1626818の条に書いている。それは常明寺蕎麦切の12年後のことであった。

 この二件の記事のうち1614年の話は有名であるが、1626年の事はあまり話題にならない。

 しかしながら、江戸初期の蕎麦切がどのようなものであったかを知ろうとするとき、「後段」と明記しているこの記事はかなり重要である。

 ただ残念ながら、慈性という人は交際上手ではあったが、美食家ではなかった。だから行動メモだけを記し、他の余計なことは一切書いていない。われわれが最も気になる、常明寺の蕎麦切がどのようなものだったのか、尊勝院における茶会の献立はどうだったのかなどについてふれていないのである。

 だからこそ、あれやこれやと想像の余地があるといえばそうではあるが・・・・・・。たとえば、1)尊勝院では後段だったのだから、常明寺も後段だったろう、とか。2)常明寺は後段と記録していないのだから、後段はありえない、とかである。

 後段でないのなら、麺だけを食べたのかというと、当時そのような食習慣を記載したものはどこにもない。だからこそ、「慈性さん、どうして詳細を記録してくれなかったの」と文句の一つもいいたくなる。

 麺類というものはわが国では室町時代から盛んに食べられるようになったのであるが、どういう形式で食されていたかというと、1506年の興福寺の日記にあるように「後段」として食べられていたのは事実である。

 そして、その後段の記事は元禄時代(第134話)まで見られる。

 だから、わが国では約190年間、後段麺類の時代が続いたようである。そして元禄時代の前後から段々と後段から独立した現在のような蕎麦切になったといえる。

 であるから、大勢としては江戸初期の常明寺の項に「後段」の文字がなくても慈性らは後段に食していたと考える方が無理はない。

 なら、その献立はいかなる風だったか?

 残念ながら、それはわからない。いわば空欄のようなものだ。

  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 そこで参考にしたいのが、奈良郡山の塗師松屋久好の1622年の茶会記録である。同じ近畿圏に住み、しかも年代は慈性が後段を振舞った年の2年前だ。ちょうどいい。それを空欄に入れてみるとこうなるが、マア夢の後段といったところだろう。

 「日野うどん また蕎麦切 肴色々 菓子餅・栗・牛蒡」  

 それにしても当時、近畿の人は何処の蕎麦粉を使っていたのだろうか? うどんの日野屋(近江)は今はないが、『毛吹草』を見ると江戸時代は名物だったらしい・・・。 栗・牛蒡は、昔の茶会ではよく食されていた・・・。 肴色々とは何だろうか・・・。

 などと思いながら、京粟田口の尊勝院の庭に立ってみると、慈性、東條、花房、内藤らが後段に蕎麦切を啜ったのが、380-390年もの往古のこととは思えないような気がしてくる。

  粟田口 尊勝院

 

参考:林観照校訂『慈性日記』(続群書類従完成会)、「松屋会記」(『茶道古典全集』第九巻-淡交新社)、松江重頼編『毛吹草』(岩波文庫)、

蕎麦膳 》シリーズ(第157、154、153、150話、)

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる