第166話 第15回蕎麦喰地蔵講
《 蕎麦膳 》五
江戸ソバリエは、九品院(練馬)に祀られている蕎麦喰地蔵尊に感謝する講(世話人代表:金井政弘さん)を春と秋の年2回実施している。
次第は、供養(読経、江戸蕎麦奉納、焼香)、住職の法話、サラザン弦楽四重奏団のコンサート(秋の講)、そして江戸蕎麦料理を頂く、ということになっているが、毎回80人前後の申込みがあって、大人気である。
【蕎麦喰地蔵尊☆ほしひかる 絵】
人気の秘密は、現代のファストフード的な料理に飽きがきたとき、スローフードなお蕎麦でも味わってみたいという気持がわいてくるためだろう。そういうとき「寺社」という和を代表するような環境で蕎麦が食べられるというのは、なかなか粋である。
元々は、蕎麦をはじめとした麺類は、鎌倉時代にわが国に入ってきて、室町時代に麺食文化の花が開いた。そして当初は寺社や武家における、特別な料理の最後に「後段」として食べられていた。そうしたときの寺社の料理を「精神料理」、武家においては「本膳料理」、そして茶人たちは「茶会席」と呼んでいた。寺方蕎麦研究家の伊藤汎先生(江戸ソバリエ・ルシック講師)によると、「後段」の初出は「興福寺」の1506年の史料(足利11代将軍義澄の代) だという。
以来、和のコース料理は江戸初期まで続いたが、当時はまだ外食という概念がなかった。だから、こうした食事会は寺社や武士の屋敷内で行われていた。加えて、社会は身分制度下にあって庶民層というものはまだ形成されていなかった。当然、庶民たちは外食などということはもっての他であった。
しかし、やがて平和な社会が訪れて、町人たちの経済活動が活発になってくると、お金を払って食事をするという行為が生まれ、外食屋が誕生した。先ずは精進や本膳や茶会席料理から飯だけが独立して、お茶漬け屋ができた。次にそれらから蕎麦が切り離されて、蕎麦屋が生まれた。 蕎麦店においては、後に高級店も繁栄し、江戸は蕎麦食文化の花が咲いた。
こうして、蕎麦界における蕎麦料理は、(1)コース料理(「精神料理」「本膳料理」「茶会席料理」)と、(2)それらから独立した単品料理の蕎麦があった。
さらに、近代になって(3)趣味の蕎麦料理が派生した。ひとつは『並木藪』の堀田勝三(1887-1956)から、もうひとつは『一茶庵』の片倉康雄(1904-1995)からである。二人とも「江戸へ還れ」という思いをいだいていたというから、江戸の高級蕎麦屋の伝統を受け継いだものだと思う。 今、『並木藪』の志は、不定期的に開催されている「蕎話会(蕎風会)」に引き継がれている。
【蕎風会の献立ー会場「能登路」】 【「横浜元町一茶庵」ある日の献立】
そして現代では、創作料理的な博多の『あ三五』(店主:磯部久生氏)、地方の伝統蕎麦料理を集めた駒込の『玉江』(店主:中村進氏)など多彩に存在するようになった。
その中にあって、われわれのように素人が蕎麦料理に取り組む姿は珍しい。 それもこれも畑貞則さん、嶋田知栄美さんはじめ江戸ソバリエのスタッフのご尽力のお蔭であるが、彼・彼女らこそが江戸ソバリエの鏡だと私は思っている。
参考:《 蕎麦膳 》シリーズ(第166、157、154、153、150話、) 、堀田平七郎『そばや今昔』(中公新書)、「あ三五」https://fv1.jp/chomei_blog/?p=2074
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕