第64話 琵琶創作曲「蕎麦の花」

     

蕎人伝 ②中村元恒・元起

 

☆謡曲「蕎麦」 

 ずっと以前に「蕎麦」と題する謡曲があるという話をどこかで耳にしたことがあった。それから3年間、私はその謡曲「蕎麦」の行方を探し続けた。

 すると、江戸末期の信州高遠藩の儒官だった中村元恒(1778~1851)・元起(1810~84)父子が著した郷土史『蕗原拾葉』の中に、五番謡曲(「白山」「六道」「蕎麦」「犬房」「天白」)の一つとして紹介されてあることが分かった。ただし、曲の作者は不明だという。だが、「白山」「六道」「犬房」「天白」の四番はともに伊那に因む内容のものである。だとすれば、五番目の「蕎麦」の作者が中村元恒、その人であっても不思議はないだろう。 元恒は晩年失脚して隠遁生活をおくったというが、そのことが作者不明となった原因ではないだろうか、と私は思っている。

 そもそもが、この「蕎麦」というのは、冷泉家十四代為久(1686~1741)が霊元上皇から蕎麦切を頂戴したときに献じた「寄蕎麦切恋御歌」のなかの二首を骨子としているとされているらしい。歌はこうだ。

呉竹の 節の間もさへ君かそば きり隔つとも 跡社はなれめ ♪
とわまほし そばはなれ得ぬ俤の 幾度袖をしほりしるとは ♪

 筋書は、為久の歌に伊那の蕎麦畠に咲く花の精が恋をするというものである

 為久という人は、武家の奏請を朝廷に取り次ぐという「武家伝奏」の役に就いていたのであるが、彼は1740年と41年の二度、関東へ下向している。想像をたくましくすれば、そのいずれかのとき木曾街道をはずれて伊那に立ち寄ったとも考えられる。なにせ為久は和歌の師として武家から引張凧の身だったのである。そして後代、その伝承を聞いた中村元恒がこのような謡曲を作った可能性はあるだろう。

☆琵琶曲「蕎麦の花」
 
ともあれ、「蕎麦」の台詞は『蕗原拾葉』で明らかであっても、歌の節がわからない。いわば幻の曲である。

 「それならいっそのこと創作を試みてみようか。それも蕎麦の精に合いそうな新たな楽器で」と、知人の琵琶奏者・川嶋信子さんに相談をした。幸い、川嶋さんは快くうけてくれた。 

 こうして、原案:冷泉為久、中村元恒、企画:ほしひかる、構成・作曲・演奏:川嶋信子による琵琶曲「蕎麦の花」が創作され、江戸ソバリエ・シンポジウム(九段:科学技術会舘ホール)の際に演奏されるにいたった。

【川嶋信子さん】

 

 

 参考:冷泉為久「寄蕎麦切恋御歌」、五番謡曲(中村元恒・元起『蕗原拾葉』)

   〔江戸ソバリエ認定委員長、蕎麦エッセイスト ☆ ほしひかる〕