第88話 浅草の空の下〈かしわ南ばん〉は香る

     

蕎人伝⑦永井荷風

 

 毎日のように定刻に現われ、定席に座って、定番のかしわ南ばんを食べて、きっかり80と5円(かしわ南蛮=85円だった)を卓に置いて帰って行く。

 雷門通り尾張屋4代目の女将登美子さんが嫁いできたときには、永井荷風(明治12年~昭和34年)のこんなスタイルが決まっていたらしい。

 しかし、荷風の日記『断腸亭日乗』には、毎日通ったにもかかわらず「尾張屋」の名前は書き残されていない。もちろん何を食べたかなどは一言も記録されていない。だが店に行けば、尾張屋で〈かしわ南ばん〉を食べている写真が遺っているから話はまちがいない。おそらく荷風は食べ物にはまったく興味がなかったのだろう。そうだとしたら、この「蕎人伝」に列するのもどうかと思ったが〈かしわ南ばん〉に免じて加えたわけである。

 そういえば、荷風の小説では『腕くらべ』に蕎麦屋について描かれているが、こんな感じである。

 「・・・・・・芸者は何といってもやはり柳橋が一でしたな。それから山谷堀、葭町、下谷の数寄屋町なんぞという順取りですかな。赤坂なんざついこの方まで蕎麦屋の二階へお座敷で来て、二貫もご祝儀を遣りゃすぐ転ぶっていうんで皆珍しがって出かけたもんでさ。」

 蕎麦屋は描いても、蕎麦には触れていない。やはり、蕎麦や食べ物には関心がなかったのだろう。

 それでも、流石に文化勲章拝受のときだけは珍しく献立を記録している。

 「昭和27113 酒は日本酒ばかり。献立はコンソンメー(肉汁)、小海老甘鯛フライ、牛肉野菜煮。菓子は栗を入れたるプディング。葡萄バナナ。食事終わり隣室にて珈琲と日本茶を喫して歓談す。

 席には、天皇陛下、高松宮宣仁親王、吉田茂首相、岡野清豪文相などの顔があり、その日は午後3時に終わった。続いて、久保田万太郎ら知人が山王下の「八百善」で晩餐会を開いてくれたらしい。

 ところで、永井荷風とはいったい何者だろうか?

 小説は『夢の女』『腕くらべ』『纆東綺譚』しか読んだことがないが、いずれも薄幸の美しい妾の話ばかりである。これだけが荷風の世界だろうか?

 エッセイには『江戸芸術論』という浮世絵の優れた研究書がある。私は時々参考にしているが、これも荷風の一面である。

 史伝では『下谷叢話』という母方の祖父である漢学者のことを森鴎外のようなタッチで書いたものがある。これも荷風である。

 さらには『日和下駄』や『断腸亭日乗』の世界がある。それを読むと、荷風は都内を歩いて歩いて歩き廻っている。その歩き方は、私のように故郷をもつ者にはよくわかる。子供のころ遊んだあの路地は、今はこんなになっちまったのかと呟きながら・・・・・・。こっちの小道は、あっちの道とつながっていたのかと、今さら知って驚いたりする。荷風の散策スタイルは、故郷としての東京である。こうしたときの荷風の眼は古き良き人情の街「江戸」へと向いていたのだろう。でも一方では、現代文化の中心地「東京」も好きだった。だから荷風は浅草でフランス映画を楽しんだり、食事をしたりした。そして、その江戸東京への熱い思いが、小説になり、エッセイになり、日記になった。 これが荷風の世界なのである。荷風は根っからの江戸東京人だった。そういう視点で荷風を読めば、江戸東京という所が見えてくるだろう。

 ところで、荷風日記は4月29日で唐突に終わっている。そしてその翌日に亡くなった。

 カレンダーを見ると、偶然にもこの原稿を書いている今日が荷風の命日である。

  だったら今日は、ちょっとだけ荷風を気取って、彼が好きだったフランス映画のテーマ音楽 「パリの空の下セーヌは流れる♪」でも聞きながら、〈かしわ南ばん〉を食べようか。

【荷風の〈かしわ南ばん〉】 

 

参考:『夢の女』(集英社文庫)、『腕くらべ』(日本近代文学館)、『纆東綺譚』(岩波文庫)、『江戸芸術論』(岩波文庫)、『下谷叢話』(岩波文庫)、『日和下駄』(岩波文庫)、『断腸亭日乗』(岩波文庫)、エディト・ピアフ歌「パリの空の下セーヌは流れる♪」、ルネ・クレール監督「パリの屋根の下」、蕎人伝(第62.64.65.70.82.87話)、

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる