<コンビ二創業戦記・別伝>「DCVS回想録」第11回
2017/01/24
<海外視察の思い出>(その2)
<DCVS時代(1989~1996)(1)
このDCVS時代に私が体験した海外視察ツアーは、ヨーロツパへ2回、アメリカへ5回の計7回であり、通算では12回となった。
ーー1989年10月ーー(第6回)
「DCVS・PALツアー『ANUGA(世界食品見本市)&ヨーロツパ流通視察』
私にとって6回目の海外視察は、ダイエー・コンビニエンスシステムズとなった合併の年・1989年10月に実施された「DCVS・PALツアー『ANUGA・世界食品見本市』及びヨーロツパ流通視察」である。
「DCVS・PALツアー」は、DCVSが主体となって加盟店オーナーと取引先企業を対象に参加希望者を募り、海外視察を通じて国際的視野を広げ、相互の成長と信頼の深める機会を作ろうと企画したものであったが、やがて「ローソン加盟店契約更新ツアー」へと進化・発展していくものである。
この時は、加盟店オーナー及び取引先などの希望者と世話役の社員も含めて、36名の構成で欧州視察団を編成した。
私は団長となり、私自身初のヨーロツパツアーであったから、心を弾ませ、喜び勇んで同行したが、当時の商品本部副本部長・林真喜男さんが副団長、清水勝也さん、戸野嘉さんがスタッフとして、よくサポートしてくれたことに感謝している。
視察予定先は、フランクフルト・ボン・ケルン・デュッセルドルフ・ミラノ・ジュネーブ・パリであった。
当時は未だ東西ドイツ分断の時代で、世界史的転換点となった「ベルリンの壁」崩壊の直前のことでもあり、飛行機テロなども心配されていた頃であったから、少なからず緊張を強いられたような気がする。
「ANUGA」は、80カ国以上から5200社が出展する世界最大規模の「食品見本市」として知られ、2年に一度の開催で、これを見ることで世界の主な食品業界の全体像を通観できる便利な展示会といわれていた。
もう細かいことは余り覚えていないが、規模の大きいこと、展示商品のボリュームの多さと肉食的な迫力感に圧倒されたこと、それに比較して日本特産品の展示が会場の片隅にあり、折角とても良い商品が出されているのに、いかにも極東の小国扱いされているようで淋しく感じたことを思いだす。
その後、近年に掛けて日本食への関心が非常に高まり、日本食ブームが世界に広がっていると云われていたのだが、このたびの「3・11」の東日本大震災と原発事故で、果たしてどう変わったのであろうかと、非常に気になるところである。
<参加者全員の集合写真・ミラノにて>
当時、私が書いた視察報告書からエピソードを抜粋すると、
10月13日 午後成田発。夜フランクフルト着。ハイデルベルグ泊
14日 有名な古都「アルト・ハイデルベルグ」市内視察。
古城見学後 市内の大学街や、青空市場を見る。
野菜,酪農品及びベーカリーなど
屋台や移動販売車で売られている。
地産地消型の伝統的市場で、人間的温かみがある。
街の商店は、営業時間規制があり、買い物に不便なり。
ボン泊。
15日 ケルン・ANUGA視察。
規模の大きさ、出展国の多く全部をじっくりみるには、
数日を要しよう。広い会場を歩き回り非常に疲れる。
ボン泊。
16日 デュッセルドルフ市内視察。
午前中スーパーなど見るべきものを感じず。
ここでハプニング発生。夕刻空路ミラノへ向かう予定が、
濃霧のため飛行機が飛べないとのこと。
急遽、予定を変更してミラノ行きを中止。
夜行バスにてアルプス越えでジュネーブに 直行とする。
参加者の一人が道に迷い行方不明となり、
皆で捜しまわる騒ぎで、少し遅れて何とか出溌。
雪のアルプスを深夜越え、スイス国境で入国審査、
早朝ジュネーブの到着する。 バス 車中泊。
17日 ジュネーブ市内視察。
レマン湖畔の美しい街並みに感動する。
J・J・ルソーの銅像や宗教改革記念像など
歴史的モニュメントが非常に多い。
国際都市で物価が高く、暮らし難い印象である。
ジュネーブ泊
18日 モンブラン・シャモニュー視察。
快晴に恵まれてモンブランにモノレールで登る。
純白のアルプス連峰・地球の屋根の壮大な景観、
そして山麓のシャモニューの清潔で美しい風景に接し、
心を洗われる気がする。
夕刻、ジュネーブの百貨店を見る。「待ちの商売」なり。
ジュネーブ泊。
19日 パリへ移動。欧州新幹線「TGV]に乗る。
確かにスピードはあるが、性能は日本に劣ると思う。
沿線の風景は田園の牧歌的シーンが続く。
フランスは農業大国で、2~3年は国内自給可能と聞く。
パリ市内視察。 パリ泊。
20日 パリの真正面に建つヴェルサイユ宮殿の正門、
金色に輝くブルボン王家の「百合の紋章」をくぐり宮殿見学。
有名な鏡の間など、急ぎ足で豪華絢爛の王朝時代を偲ぶ。
その後市内視察へ。
私は敬愛するナポレオン・ボナパルトの遺骸が安置されている
アンヴァりツドへ、ナポレオン縁りの(パリ廃兵院) を訪ねる。
じっくりと時間を掛けて、丁寧に視入る。 感無量なり。
オ・プランタンやルイ・ヴィトン、シャンゼリーぜを見て歩く。
オプランタンは大きな店だが、新味に乏しい店だ。
街に古い建物が多く、歴史を大切にしている感じがする。
パリ泊。
21日 午後パリ発。 機中泊。
22日 正午成田着。 とある。
<モンブランを背景に> <ディナーパーテイ風景>
私にとっても初めてのヨーロツパ訪問であったが、視察報告書には、
①・訪問したそれぞれの都市が、宮殿や寺院、絵画,彫刻などの文化財を、
非常に大切にする伝統が強いこと、
②・都市と自然環境、商店街などが計画的に調和していること、
③・商店の「立地と建築条件」及び「営業時間・休日など」に厳しい規制がなされていること、
④・住宅や道路、水道など生活インフラの質が高いなど、総じて豊かさとは何か
を考えさせられたこと
⑤・ANUGA展示商品の中で、オランダ・ベッカーズ社のスナック商品に、
コンビ二向きのものが幾つかあったこと
⑥・ジュネーブ駅前の地下ショッピング街で、サンドイッチカウンターの隣に、
オートマチック・コンビ二エンス・マシンが設置され、
ドリンクやスナックが販売されていたこと
などを記録している。
我々が帰国して間もなく、僅か1ヶ月の後、鉄壁に見えた「ベルリンの壁」は、突如として
崩壊し、第二次大戦後、半世紀近くの長きにわたって、世界に核戦争の恐怖と緊張を
与え続けてきた、東西冷戦構造は、漸く終焉を迎えたのである。
これを契機に、「21世紀こそ、人類社会に、新しい平和の配当の時代が到来する」、
との熱望が世界中に高まったのであるけれども、20年以上を経た現在においても、
未だにその夢が果たされていないことは、誠に残念至極といわざるをえない。
ーー1991年11月ーー(第7回)
「DCVS・PALツアー『加盟店米国流通視察』」
7回目の海外視察は、1991年(平成3年)11月に実施した「DCVS・PALツアー『加盟店・米国流通視察」である。
オーナーご夫婦やご家族を含めて総勢29名の皆さんと共に、私は団長として、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、ホノルルをめぐるツアーをエスコートさせて頂いた。副団長として当時のオーナー相談室の坂本洋二さんがサポートてくれた。
東京の王子4丁目店・佐伯共栄オーナーや神奈川の追浜店・鎌瀧健治オーナーを初め、皆さん方とそれぞれに親しく懇談することが出来たのは、懐かしい思い出である。
佐伯さんは、酒販店出身、肝っ玉かあさんタイプの、豪快、且つ、エネルギシュで、座持ちの上手な、楽しい女性オーナーであった。
日ごろから、オピニオン・りーダー的な役割を果たしてくれていたが、この時も、ご婦人方の世話役をかっていたと思う。
いつも何かあると、気軽に電話で相談してこられてる熱烈なローソンフアンのオーナーであった。
残念ながら、佐伯さんは、5年ほど前に病を得て亡くなられた。
私はローソンを退職した直後であったけれども、葬儀に参列し、心からご冥福をお祈りした。
佐伯さんは2店舗を経営されていたが、幸いにして素晴らしい二人の娘さんがお店を継いで、協力しながら立派に経営されていることは嬉しい限りである。
鎌瀧オーナーは、ローソンオーナー福祉会の理事を勤めたり、地域商店会の役職などもされており、理詰めで物事を考えられる勉強熱心で、笑顔の素晴らしい商売人であった。このツアーでも、ロスアンゼルスやサンフランシスコのコンビ二やスーパーの店を熱心に見学しておられ、時に、突っこんだ質問をされていたのを思い出す。
後に、追浜店の地元商店会の勉強会に、「コンビ二業界の現状に付いて話をして欲しい」との要望を受けて、私が講師に行ったことも忘れがたいことである。
<全体集合写真・ホノルル空港にて> <ハワイ観行の途中にて>
米国本土からの帰途、ハワイ・ホノルルに立ち寄って、リゾート気分を味わったことが、参加者全員は勿論、ローソンにとってもハワイと云う海外リゾートの魅力に取り付かれるきっかけになったかも知れないと思う。
1990年代初めは、フランチャイズ契約更新店舗が急増していく時期であり、本部として契約更新をスムースに行うためのインセンティブの一つとして、PALツアーの発展形態である「契約更新ハワイツアー」を、1991年(平成3年)にスタートさせるのである。
これは定例化されて継続し、今でも毎年実施されて大変好評であるという。
また後の1994年(平成6年」)に、5000店達成記念事業の一つであった「全加盟店招待ツアー」の行き先も、ハワイであったのはむべなるかなといえよう。 これに付いては、別の機会に改めて書くつもりである。
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