第195話 日本橋 蕎麦事始

     

 

 スカイツリーと富士山が一望できる鎌ヶ谷市役所の屋上が人気だという。それが現代日本の象徴的景観であるからだろう。

 そういえば、昔の江戸っ子も誇りにしている景色があったらしい。日本橋から望む江戸城と、駿河の富士である。だから、広重、北斎らの、日本橋・江戸城、富士山が一つになった絵は大変な人気だったという。

 その日本橋一帯は家康関東入部以降最初に町割された地域という有名である。1603年には平川の延長の川(現:日本橋川)に68m×7mの円弧状の木橋「日本橋」が架けられた。当初は臨時に2本の木を渡していたところから、「二本橋 → 日本橋」と呼ばれるようになったとも聞くが、たぶん本当だろう。その後、日本橋川の両岸は河岸が発達し、食材・資材が集まって江戸の代表的な商人・職人のほとんどが日本橋地区に居を構えるようになり、日本一の繁華街へと成長していった。

  この5月、日本橋川の旧魚河岸に文化情報発信型飲食店「豊年萬福」(㈱ジェイプロジェクト)が新築された。名付親は小泉武夫先生だという。

 すぐ近くに福徳神社という古くからの社が在すが、社務所に飾ってある五風亭貞虎筆の浮世絵「豊年萬作」にも遠くに福徳稲荷が描かれてある。その絵を文字っての飲食店「豊年萬福」なのであるが、縁あって本日のオープン・レセプションに招かれた。

 店内は、セミナーなどの教室や展示会場としても使用できるということから、これから江戸の食の情報発信施設として大いに期待できると思う。

 http://navigator.eir-parts.net/EIRNavi/DocumentNavigator/ENavigatorBody.aspx?cat=tdnet&sid=1055143&code=3063&ln=ja&disp=simple

 ところで、この日本橋地域を「江戸ソバリエの眼」で見てみると、蕎麦と縁の深い所だ。というよりか、江戸の蕎麦屋の発祥の地といってもいいほどだ。結論を先にいえば、日本橋は、蕎麦史的には4件もの蕎麦事始を有する実に重要な地域である。

                 

Ⅰ、最初は江戸蕎麦切初見の事である。

 徳川2代将軍秀忠の代の1614年に、江戸の常明寺という所で、東光院詮長ら三人の僧が蕎麦切を食べたことが『慈性日記』という史料に記録されているが、これが江戸蕎麦切の初見の記事であることは蕎麦通ならご存知であろう。しかも、三人で町の風呂に出かけたところ、いっぱいだったので蕎麦切を食べたというから奮っている。

 江戸における町の風呂屋は、予市という伊勢の者が銭瓶橋の傍で開業したのが最初(1591年)だという。

で、この三人の僧というのが、京粟田口の尊勝院慈性、近江坂本の薬樹院久運、そして江戸日本橋しんなわ町(本町4丁目) の東光院詮長だった。(三院とも現在も健在である。)

 まさに「江戸蕎麦学」の序曲が日本橋の住人によって始められたという事である。

Ⅱ、次が日本初の蕎麦屋の事である。

 その前に、蕎麦切は先ず寺社で食されていたという史実を知っておかなければならない。前述の常明寺で三人の僧らが食したことなどもその表れである。

 ところが、江戸時代になって平和が訪れると、経済が動き始め、商人・町人、下級武士たちにも生活に余裕が出てきた。加えて、江戸は単身赴任の街であった。そこで日常生活の中に外食という概念が芽生えたのである。

 先ず、4代将軍家綱の代 (1657年頃)に、日本で最初の外食屋が開店した。つまり簡単なお茶漬を供する《奈良茶》屋が浅草待乳山聖天の門前に出現したのであるが、それ以前まで日本人には外食の習慣はなかった。

 続く1661-1673年頃(同 家綱の代)、簡単な麺類を供する《けんどん蕎麦》屋が現れた。これが日本初の蕎麦店である。

 その店は何処か? 蕎麦好きとしては興味深々であるが、二説ある。

 (1)日本橋瀬戸物町信濃屋、(2)新吉原江戸町二丁目「仁左衛門」説である。

 瀬戸物町(室町1、2丁目、本町1、2丁目)の名は、当時水野家や大原家など6軒の瀬戸物店が在ったことによるが、その後、町飛脚問屋が興り、また魚河岸と室町の繁華街に接する位置にあるところから、1673-81年頃には水菓子店、1772年には鰹節・塩干肴問屋「伊勢屋」(にんべん)、1781-89年頃には煎餅店、白玉餅店、1824年には乾物問屋、御膳海苔問屋、醤油酢問屋、諸国銘茶問屋、1852年には料理即席「川房梅」、蒲焼「村田」、御前生蕎麦「清蕎庵」などの店や有力商人が集まってきた。

 一方の吉原は1656年ごろに浅草へ移転したものの、それ以前の元吉原は日本橋人形町であったから、小説家なら「仁左衛門なる人物も日本橋ゆかりの者であった」と想定して筆を進めるだろう。

 ともあれ東光院詮長から約半世紀、鰹節や海苔などの江戸の食のシンボルが集まる日本橋に日本初の蕎麦店が誕生したことは、環境的には当然至極といえるだろう。

Ⅲ、続いて《打掛蕎麦 ブッカケソバ》の事である。

 江戸蕎麦には、冷たい笊蕎麦》と温かい掛蕎麦》があることはお子さんでも知っている。《笊蕎麦》は1791年に深川洲崎の伊勢屋が始めた。昔から日本の蕎麦は冷たくて、それを大笊に盛ってあって、それをお椀に小分けして、汁を付けて食べるのが一般的であった。それを伊勢屋はお椀ではなく、最初から小笊に盛り、これがうけた。一方の《掛蕎麦》は日本橋が元祖といってよい。でも、なぜ《掛蕎麦》というのか? 汁の中に蕎麦が入っているから《汁蕎麦》でもいいではないか、なぜ「掛」なのか? それは椀や皿に盛られていた冷たい蕎麦につゆを「ブッ掛け」たことに由来するからである。5代将軍綱吉のころ(1688-1704年頃) 日本橋新材木町(日本橋堀留町1丁目、人形町3丁目)の「信濃屋」がそれを始めた。またまた「信濃屋」であるが、瀬戸物町と新材木町の「信濃屋」の関係は不明である。

 ブッ掛けを始めた材木町は、材木町(日本橋1丁目)に対して、竹木・薪炭、そして米などが集まる元気な町であった。その上「江戸の七稲荷社」といわれた椙森稲荷神社への参拝客で賑わう町でもあった。

椙森神社

 威勢のいい町人たちは〝勢い〟で蕎麦につゆをブッ掛けて喉に流し込むように食っていたのだろう。

 だから当時流行し始めたばかりのブッ掛けは下品とされ、「女子はあんな食べ方をしてはいけない」と窘められたともいう。

 しかし、よくよく考えてみると、この〝勢い〟から生まれた《打掛蕎麦》は江戸の食べ物の特質を備えていた。

 世界を見回せば、ご馳走というのは中華料理、京料理、フランス料理という具合にフルコースが正統派である。そんな中、珍しく江戸だけが単品料理を創り上げた。その単品料理誕生に共通しているのが〝勢い〟である。〝でき立て〟の食べ物をありがたがるのも、この「し立て」という勢いを大切にしているからに他ならない。

 余談になるが、この〝勢い〟と〝ファストフード〟を混同している味音痴の人が偶にいる。1716-36ごろ、屋台なるものが登場し、安い寿司や天麩羅が売られるようになったが、それを「江戸時代のファストフード」と言う人がいる。しかしそれはちがう。素人でも作れるようにマニュアル化されたファストフードはいつでも何処でも同じ味だが、職人が作る本物の屋台料理は隣の屋台とは違う味である。勢いから生まれた江戸の食はイキに昇華し、どこかの国のファストフードはヤボに堕ちるといってよい。

日本橋新材木町日本橋保健センター辺りに佇ってみると、信濃屋は「この旧東堀留川辺にあったのだろうか?」と思えてくる。】

  さて、やがて《打掛蕎麦》は広まって 11代将軍家斉の代(1789-1801の頃)に、それは温かい汁物となって《掛蕎麦》となったのである。

 このように蕎麦屋、掛蕎麦の事始が、まるで五街道の起点のように日本橋から始まっているのはなぜだろう?

 Ⅳ、そこで日本橋の事を見てみると、すべては16世紀末に白魚市が開かれたことに始まるようだ。白魚市は橋の北側の魚河岸へと発展し、川沿いには塩、米などの食材から、材木にいたるまでの河岸が広がり、それにつれて商い、つまり人と物と金が集まる所として日本橋は賑わうようになった。日本橋は「江戸の台所」になったのである。 

 目を転じて蕎麦と縁のある香辛料についても見てみると、3代将軍家光(1625年)のころ、早くも辛子屋徳右衛門が両国薬研堀(東日本橋)で「七味」を売り出した。

 1665年に「白木屋」が日本橋通1丁目で呉服屋を開店、1683年には「越後屋」が現金売りという新手の商いを始めているのも江戸随一の繁華街だったからに他ならない。

 だから10代家治 (1764-81年頃)の代には、高級料亭「百川」(日本橋浮世小路)も開店。さらに蕎麦と縁の深い山本海苔店は1849年(12代将軍家慶の頃)に現在地に開業した。

 それから、瀬戸物町や安針町(室町1丁目、本町1丁目)辺りには鳥肉問屋も現れた。といっても当時の食肉習慣は雉か、鴨、鴈、鴫などの水鳥だったが、「東国屋」が鳥問屋の最初だとされており、店先には鴨が3羽ずつ首を束ねてぶら下がっていたという。

 そんな具合だから1810年頃(11代家斉の代)に馬喰町1丁目(馬喰町1丁目)竜閑川・鞍掛橋にある高級蕎麦店「笹屋の治兵衛が《掛蕎麦》に「鴨肉3切と叩き骨2個と葱」を入れてみようと思いついたが、これも日本橋ならではのことだろう。ちなみに、「笹屋」の掛行燈は漆工家・絵師の柴田是真(1807-91)の父市五郎の作だったという。

日本橋馬喰町1丁目・鞍掛橋交差点に立つと、気のせいか旧竜閑川の水の匂いがする。】

  「笹屋」の《鴨南蛮》は、後(1848年)に同じ馬喰町の伊勢屋藤七が引き継ぎ《鴨南ばん》とやさしい字になる。以後、→ 川辺藤吉 → 杉山喜代太郎 → 桑原光二 → 桑原敏雄 → 桑原芳晴氏 → 小林敦広氏に継がれ、今も藤沢市湘南台で「元祖 鴨南ばん」として健在である。

【登録:元祖 鴨南ばん

  そういえば、「室町砂場」(現:5代目村松毅氏)が《天ざる》を初めて考案した事を考えると、日本橋には伝統+革新というDNAが流れているのだろうかと思ったりする。

 だから《ぶっ掛》《鴨南ばん》《天ざる》に続くものが日本橋に期待されるのであるが、その伝統を認識してもらうために、日本橋地区の財産である「元祖鴨南ばん」の《鴨南ばん》と「室町砂場」の《天ざる》を「日本橋伝統食」(仮称)・江戸蕎麦の部に登録しておきたいものだ。

【登録:室町砂場の天ざる

 

 さて話を戻して、冒頭で紹介した「豊年萬作」を描いた貞虎は初代歌川国貞の門人で、1818-44年頃に活躍していた。

 その少し後の1833-58年頃に活躍したのが歌川豊広の弟子・広重(1797-1858)だった。彼は常盤町(京橋1-9)に住んでいた。

広重住居跡

  このころ襲ったのが安政の大地震、人々の不安感を招いた。だから広重は、この江戸の美景を筆で記録しておこうと『江戸百』を描いた。その一枚に「日本橋通1丁目略図」(安政5年)がある。絵には御膳生蕎麦東橋庵」や白木屋などが描いてあるが、この「東橋庵」は江戸後期の史料には必ず掲載されている高級蕎麦店であった。辺りは現在「コレド日本橋」(日本橋1丁目)が建っているが、昔から日本橋通1丁目は大店が並び江戸を代表する繁華街を形成していた。広重がここを描いたころは書物、呉服・木綿問屋が集中していたという。

日本橋通1丁目☆ほし蔵

  江戸時代を人間にたとえれば、小人期 → 大人期 → 老人期と分けられるだろう。年代でいえば、1600年代 → 1700年代 → 1800年代がそれである。

 1854年、高級料亭「百川」が日米和親条約締結の正餐での本膳料理を2000両で仕出したころ、江戸時代という舞台の幕が閉じようとしていた。

 そして1868年、江戸東京になったことはいうまでもない。

 しかし、時代は変わっても、江戸の食は変化し、進化する。だからこそ、その元となる伝統食も大切にしたい。それが広重の願いでもあったかもしれない。

感謝:195話は、『月刊 日本橋』5月号の取材を受けた折にまとめたものです。好機を与えていただいた『月刊 日本橋』の編集部に心より御礼申し上げます。

 http://www.nihombashi.co.jp/

参考:『月刊 日本橋5月号、村瀬忠太郎『そば通の本』(小学舘文庫)、駒井亨『肉用鶏の歴史』(養賢堂)、白石孝「日本橋新材木町商業史覚書」(『三田商学研究』40巻5号)、浅野秀剛・吉田伸之編『大江戸日本橋絵巻―「煕代勝覧」の世界』(講談社)、望月義也コレクション『広重名所江戸百景』(合同出版)、

ほしひかる筆「小説 江戸人紀 第五巻 広重、葵坂で蕎麦を啜る」⇒ 江戸東京下町文化研究ブログ http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd7/

 〔江戸ソバリエ認定委員長、伝統江戸蕎麦料理研究家 ☆ ほしひかる〕