第367話 芒の箸で麺を食べる人たち
~ 青屋祭 ~
7月17日16時半、石岡市の青屋神社で青屋祭が氏子によって催された。例祭は、宮司の打つ太鼓で始まり、最後に御神酒を頂いて終了する。
一、太鼓
一、お祓い
一、祭主一拝
一、献饌献灯
一、祝詞奏上
一、玉串奉奠
一、祭主一拝
一、撤饌撤灯
一、太鼓
一、御神酒
この後、地区の集会所で行われる直会では、芒のお箸で饂飩を食べるのが慣わしになっているという。
食物史を勉強している私は、とうぜん箸にも興味をもっている。だから、これまで大和の箸墓や四国の箸蔵寺を訪ねたり、アイヌの祭祀用のパシを手に入れたりしたこともあるが、どうしても気になる所があった。それが、当地の芒のお箸で饂飩を食べる民俗行事であった。
話は奈良・平安の律令時代に遡る。そのころの列島には約60の国があり、各国には役所があった。その役所を国庁という。今でいえば県庁みたいなものである。そして他の官庁を含む官庁街を国衙、さらにそれを取り囲む町を国府とよんでいた。ここ常陸国の国府は現在の石岡小学校の敷地にあったことが分かっている。
都から常陸へ着任した国司は、鹿島神社に参拝するという決まりがあった。その参拝は高浜から霞ヶ浦を船で行くのが順路であったが、荒天で出航不能のとき、高浜の渚に芒、葦、真菰などで青屋(仮屋)を作り、そこから鹿島神社を遥拝し参拝にかえた。それをいつしか「青屋祭」とよぶようになった。
近世になったころ、その青屋祭神事は現在の石岡小学校近く辺りで行われるようになっていたらしい。
歴史書によれば、六月二十日(旧暦)の深夜、2人の者が青い芒や細竹で青屋(仮屋)を作り、神拝は翌二十一日の午後4時から始まったという。
明治中期になると、神拝の場に小祠が建てられた。それが今日訪れた青屋神社である。
そして例祭の後の直会では、芒で作ったお箸で饂飩を食べる習俗として、古代国司の遥拝の精神が今も受け継がれているのであるが、仮屋(青屋)を建てた芒を材にしてお箸を作るということは、各地の神社の神木でお箸を作ることと同じであると思う。
白洲正子は神木で箸を作るのは、食事の前に「頂きます」と礼拝する行為同様日本人の「箸の思想」であると言っているが、こうやって訪ねて来る私も、箸に魅力を感じる白洲正子の思想に影響をうけたのかもしれない。
さて、氏子の人たちは親切であった。余所者の私に、芒の箸で「饂飩を食べていけ」と勧める。私も、「せっかくだから」とご相伴に預からせてもらった。芒の茎は思ったより、しっかりしていた。
ところで、近藤弘は古代日本の箸圏を次のように分けている。
○天孫系の神々は杉・檜・柳箸、
○出雲系の神々は栗箸、
○東国は芒(萱)などの青箸圏
であった、と。
これを私流に解釈すれば、
◎近畿圏の人種は杉・檜・柳箸を使用、
◎北部九州・山陰圏の人種は栗枝の箸、
◎東国の人種は青箸(芒の茎)
を使っていた、ということであろう。
そういえば、常磐線に乗って石岡までやって来る途中、手前に高浜、その手前に「神立」という駅であった。
神立といえば、出雲神楽「八岐大蛇」に箸が出てくるが、それを「神立箸」という。私は「神立駅」を通過したとき、東国にも明らかに青箸文化圏があったことを確信した。
つまり古代日本には、箸の材料から見て三種の民族がいたという遠い古代のロマンに満ちた話である。それを今日の青屋祭で確認できたというわけである。
最後にちょっと付け加えておこう。
古代東国の人たちは芒の箸を使っていただろうが、それで国司が饂飩を食べていたかというと、それはありえない。饂飩が登場するのは室町時代である。だから、饂飩云々は、後世に加わった民俗であろう。
それよりもここで重要なことは「芒のお箸」で物を食べる習俗を守り続けているこの地区の氏子たちの神々しいまでの精神である。流石は常陸国府の民の末裔だと頭が下がるというものではないか♪
参考:平成28年7月17日青屋神社の青屋祭、近藤弘『日本人の求めたうま味』(中公新書)、白洲正子『日本のたくみ』(新潮文庫)、
〔エッセイスト ほしひかる☆文・写真〕